Japan Australia Information Link Media パースエクスプレス

フォトジャーナリスト宇田有三氏による衝撃ルポ

On The Road by.Yuzo Uda
Vol.175/2012/8

「『ビルマ(ミャンマー)』から『沖縄』へ」


(左上写真)梅雨明けの汗ばむ日、慰霊碑のひとつ「栄里之塔」の側で、作業員たちがごろりと横になり休息をとる。
(左下写真)現在の「ヌチドゥタカラの家」の館主である謝花さんは、資料館を訪れる訪問者に阿波根さんの平和への取り組みの軌跡と現在の基地問題の現状を説明する。
(右写真)沖縄本島の東北部・高江では、オスプレイが配備されるヘリパッド移転建設反対の座り込み運動が続く。



 伊江島補助飛行場は1976年の第16回日米安保協議会委員会で、移設を条件に全面返還することが合意されたが、地元地主会が継続使用を要請したことから、返還合意は完全に宙に浮いている(『観光コースでない 沖縄』高文研)。

 米軍基地による土地使用料などの経済システムに依存してしまった土地の人びとは、実際、身動きがとれなくなってしまっている。沖縄の現実は、どこか原発に依存せざるをえない(依存させられてしまった)日本各地の地方都市に散らばる、その前景のようでもある。

 阿波根さんや謝花さんはそれこそ、沖縄県ばかりでなく、小さな島の中でさえも嫌がらせも受けながら、孤立した状態で抵抗運動を続けてきた。
 沖縄の人びとの死を無駄にしてはならない。戦後、そう言われ続けてきた。ではそれは、具体的にどのような形を取ってその反省を生かしてきたのだろうか。基地問題は「解決」せず、今また、新型輸送機のオスプレイの配備もなし崩しの形で進められようとしているのに。