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フォトジャーナリスト宇田有三氏による衝撃ルポ

On The Road by.Yuzo Uda
Vol.174/2012/7

「『ビルマ(ミャンマー)』から『沖縄』へ」


 少々強引かもしれないが、ビルマと日本とは、緯度に目をやると、重なり合っているのだ。沖縄といえば(勝手な先入観であるが)、基地である。やはり軍の活動の大本営である。さらに沖縄の島々は、先の「アジア・太平洋戦争」で唯一、地上戦の戦場となり、今また在日米軍の基地や施設の74%が集中している。
 そこで、ビルマから日本への戻った翌6月、初めて沖縄に行ってみた。偶然にも6月は、23日の「沖縄慰霊の日」であった。騒音の沖縄・基地の沖縄という先入観を持って沖縄に着いた私は、それほど関西の街と変わらぬ街の喧騒の程度に肩すかしを食った。もちろん、慰霊の日の前後は、米軍の演習が控えられていたという話でもあった。
 沖縄を訪問した目的の一つは、「軍人よりも一般市民が死んだ」─その沖縄の慰霊の跡を辿ることでもあった。その出発点はやはり、「魂魄の塔」である。
 もちろんこの慰霊の日の主舞台は、首相・衆参両院議長、知事が出席する平和祈念公園で行われる「沖縄全戦没者追悼式」である。だが、沖縄戦の遺族たちでもっとも賑わうのが「魂魄の塔」だと聞いていた。


 周辺には、おびただしい白骨が散乱していた。真和志村民は、さっそく遺骨収集班を編成して収骨作業にとりかかった。集まった遺骨は3万5,000体にものぼった。日本兵も住民も米兵も区別はなかった。山積みされた遺骨を納めるには墓をつくらねばならない。村長は米軍と交渉してセメントと古材を支給してもらった。こうして、慰霊塔の第一号というべき「魂魄の塔」は46年2月に落成したのである。<中略>
 復帰後、摩文仁ヶ丘に国立沖縄戦没者墓苑ができて、各地の納骨所に納められた遺骨はここ一カ所に集められることになった。・・・・・・。しかし、遺族たちはいまでもやはり魂魄の塔を参拝する。慰霊の日には塔の斜面はおおかた花束に埋もれ、終日線香の煙が絶えることない。「魂魄の塔」は、“沖縄の塔”といってよい。

 『観光コースでない沖縄』(高文研)



「魂魄の塔」


 その「魂魄の塔」の前でカメラを構えた私は、正午のサイレン(鐘)の合図を待った。そう、お決まりの1分間の黙祷の瞬間を写真に収めるためである。

(続く)