Vol..140/2009/9
「音が見えない」

 ちょっと話は変わるが、例えば、お金というものは本来、目にすることができない。お金は、実生活では、紙幣(硬貨)という形をとる。おそらく殆どの人は、多くの人の手を経て汚れてしわくちゃになった紙幣より、新しい紙幣(ピン札)を手にしたいというのが本音であろう。ピュアでキレイな紙幣を、だ。
 ビルマ(ミャンマー)でこんな経験をしたことがある。経済的に疲弊しているビルマにあって一時期、米ドル紙幣の偽札騒ぎがあった。米ドルから現地の通貨に両替に行っても、100ドル米札を受け取ってもらえないことがあった。手にしているのが新札なら、さらに疑いを抱かれた。そんな時、古く汚れたお札が重宝されたことがある。現地通貨への交換を渋る両替商に言ってみた。
 「ほら、こんなにしわくちゃになった100ドル札は、それだけ多くの人の手に渡ってきた証拠なんだよ。もしこれが偽札なら、そんな風に流通してこなかったでしょ。これが偽札であるわけがないでしょう」と。そういう説明を聞いて、その両替商は納得してくれた。必ずしもピュアで新しいモノに価値があるのではない。
 

 つまり、物事や事象を単純にピュア(純粋)化するのは、どこかおかしい。ピュアなモノを求めて、自分の聴きたい音だけを聴き、見たいものだけを見るということが一般化すれば、人間の視野は次第に狭められていくかもしれない…。

 というようなことを書きながら、ふと、キーボードを叩く作業を止めてみた。部屋に流れるラジオの音を消し、耳を澄ましてみた。部屋の音、町の音に集中してみる。すると、時計の秒針、パソコンのファン音、配達のバイク、車の音、遠くを走る列車の音が聞こえてきた。
 目を閉じて音に集中してみる。だが、すぐに息苦しくなり、静かに耳を澄ます状態は数分しかもたなかった。自分でも驚いたことに、普段どれだけ様々な雑音に囲まれて生活することに慣れてしまっているのか、改めて思い知らされた。

   


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