さて、フォトジャーナリストが被写体を主体的に選ぶとはどういうことなのだろうか。それは、カメラを持ち、現場に出て初めて答えが出てくる問いでもある。写真でしか表現できないものは何かをきちんと認識することだ。まずは現場に出なければ話にならない。撮りたいモノが自分の内側にあるから動き始めるのではなく、動き始めて、自分の撮りたいモノが自分の外側にあることに初めて気づく。それは経験から言える。
さらに、自分の撮る被写体を、自分の視点で追い続けることにも価値がある。自分の視点とは、時代を見る眼。社会状況を分析する眼である。独自の判断が必要である。ニュースにならなくても、マーケットに乗らなくても撮り続けなければならない。
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と、同時に、商品としての作品とそうでない作品のせめぎ合いは続く。仕事と生活、仕事と生き方、そのバランスである。いくら理想論を訴え続けても、まず、足元を見て、社会人として、生計を営む一個人として存在しなければならないからだ。
それだからこそ、私が今、個人的に望むのは、良い写真編集者に巡り会いたいということだ。活字人間ではない写真編集者に会いたい。写真を見る目を持った編集者に出会いたい。もしかしたら、それは難しいかもしれない。もしかしたら満足のできる写真編集者には、一生出会えないかも知れない。しかし、万一、出会ったときのために、今は現場に行き、いつでも提示できる写真を撮り続けるしかないのだ。
写真編集者と現場を撮る写真家の二人三脚で、世に問う写真はできないものか。
(つづく)
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