毎年恒例のパース国際芸術祭のフィナーレが3月5日、パース駅前のフォレストチェイス特設会場にて行われた。今年は、日豪間の相互理解を目的として設けられた日豪交流年の一環として、和太鼓演奏家の第一人者、林英哲氏がとりを飾った。そして、氏を取り巻くようにスペシャルゲストとして尺八演奏家のライリー・リー氏、アボリジナルパフォーマーのマシュー・ドイル氏、英哲風雲の会の上田秀一郎氏とはせみきた氏、オーストラリアで活躍するTaikOzのメンバーによってパフォーマンスが繰り広げられた。喝采を浴びたステージから一夜明けた翌日、林氏にお話をお伺いした。
ばちを持つ両腕に隆起した筋肉がまるで別の生き物のように動いている様は、鍛え抜かれた証とも言える。本来の民族楽器としての太鼓は、林氏の演奏には当てはまらない。大太鼓をあのような打点で演奏する技法は、林氏独自のものである。しかし、それには尋常でない体力が必要となる。1971年から10年間、太鼓や郷土芸能を世界中で演奏し、その集めた資金で佐渡に職人養成の国際大学を作るといった目的で集まった「佐渡國・鬼太鼓座」に参加した林氏は、来る日も来る日も走ることでトレーニングを積んだ。
林氏:「若い時は本当に走り込みや何やら、いろいろとやっておかないと、舞台の上で失速してしまう。途中まではいいけど、後半がもたない。お客さんにフルでいい状態のものを観て頂くということができないですね。精神的にもまだ、若い時分は余裕がない。ですからその分、体のトレーニングをしたっていうことを僅かな自信に、自分の精神的な支えにする。体を作るという意味もあるし、自分はこれだけやってきたんだから大丈夫という精神的な支えにもなる。トレーニングってそういうことですよね。」
1952年に広島で生まれた林氏は、将来は美術家になることを夢見ていた。しかし運命の糸は、美術家ではなく誰も踏み入れたことのない和太鼓ソリストへの道へと繋がっていた。林氏のドキュメンタリー映画『朋あり。』の冒頭で自身が「太鼓打ちになりたいわけではなかった」とのコメントを残している。今や世界で活躍する和太鼓演奏家のパイオニアからそのようなことが発せられることに不意を討たれる思いだった。
林氏:「日本の太鼓は、面白いと思ったことがなかったんです。日本の太鼓というか、既成の太鼓ですね。そうじゃなくて、プロがやっていく音楽の分野として確立できるようなものを創らないとダメだろうと思ったんです。それで各地の伝統芸能とか、いろんなものを習いに行った。人がやらないような表現を、ゴッホでもピカソでもやり始めたときは非難ごうごうだったと思うけど、人がやらないようなことを僕は太鼓でやったんです。」
そして、1976年に小澤征爾氏の指揮でボストン・シンフォニーとの共演による「モノプリズム」(作曲:石井眞木)をきっかけに和太鼓演奏家になることを決意する。その時のことをこう振り返る。
林氏:「最初は太鼓だけのパートで、オーケストラは加わらない。聞こえるか聞こえないくらいかの小さい音で始まり、静寂のなかからすーっと音が沸いて出るように演奏をしなくてはならないんです。ものすごく小さい音なんですけれど。僕が最初の打ち出しだったんですが、もうそれこそえらい緊張しました。まずは、東京文化会館で打ち合いをし、ボストンに行ってからも練習して。でも、小澤さんの凄いところは、リハーサルと本番のテンポが変わらないこと。後々その曲が『尾高賞』という賞を受賞し、他の指揮者とも演奏しましたが、小澤さんだけですね、テンポが変わらないのは。ほんとに素晴らしい。」
林氏:「最初は太鼓だけのパートで、オーケストラは加わらない。聞こえるか聞こえないくらいかの小さい音で始まり、静寂のなかからすーっと音が沸いて出るように演奏をしなくてはならないんです。ものすごく小さい音なんですけれど。僕が最初の打ち出しだったんですが、もうそれこそえらい緊張しました。まずは、東京文化会館で打ち合いをし、ボストンに行ってからも練習して。でも、小澤さんの凄いところは、リハーサルと本番のテンポが変わらないこと。後々その曲が『尾高賞』という賞を受賞し、他の指揮者とも演奏しましたが、小澤さんだけですね、テンポが変わらないのは。ほんとに素晴らしい。」