「インタビュー 和太鼓演奏家・林英哲氏」  「西豪州ワイン親善大使 山形由美さんがパースへ」

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  インタビュー 和太鼓演奏家・林英哲氏
 

 先人のいなかった和太鼓演奏者への道を歩み始めたのが30歳になった、1982年だった。1984年には、ソリストとして初めて、オーケストラ曲「交響的変容」(作曲:水野修孝)でニューヨークのカーネギーホールでデビューする。日本の民族楽器としての太鼓から脱却した独自の技法と表現力で、今までにない新しい太鼓を創造した林氏。全く新しい様式を用いた高度なテクニックとソロ奏法は、世界でも高い評価を得ている。これまで、40カ国以上で公演を重ね、様々なジャンルの音楽とも共演してきた。今回のパースでの公演もオーストラリア原住民、アボリジニの民族楽器ディジュリドゥと共演した。
 林氏:「太鼓はリズム楽器なんで、比較的共演しやすいんです。どこの民族楽器とも。多分、弦楽器とかメロディーを伴うものだと使う音程が違ったり、音色が違ったり、うまく合わないところがあるのでしょうけど、我々の場合、打楽器なんでどういう楽器と共演してもそんなに大変だということはなく、歩み寄りやすいですね。ただテンポ感とか、使うリズムの技法は違ってくるので、そこを合わせるのはなかなか難しい。でも、全く合わせる必要もない。マッチしちゃったら別に一緒にやる必要もないし、逆にその異化効果といったもの、例えばオーケストラの中に太鼓が入るのもそうですけど、一種の違和感を与える、通常見慣れないものが入っているということで、逆に緊張感が高まったり、音楽として刺激的になったりすることはあります。」
 近年では、伊藤若冲(江戸時代中期の異端の画家)や高島野十郎(明治・大正・昭和を生きた孤高の画家)、浅川巧(朝鮮民芸研究家)といった林氏に影響を与えた美術家をモチーフに舞台が創作されている。しかし彼らに共通する点は、誰もが生前に脚光を浴びなかったことだ。なぜかそこには、先人の孤独と悲哀を感じざるを得ない。当然、パイオニアの林氏の中にも同じものが蠢くのかもしれない。
林氏:「僕は伝統のものを否定しているわけではなく、表現を新しくしようとしているんです。精神性としては、先祖帰りをした方がいいと思っています。太鼓が単に、飲んで騒いで叩くだけというレベルのものが嫌なだけで、もっと昔の人は、例えば雨乞いの太鼓なんていうと、今より切実に叩いていたと思うんです。僕らが今、プロとしてやることは、精神性として、そのレベルでやらなければと思っています。伝統の精神を持って。しかし、じゃあどこからが伝統で、どこからが伝統じゃないかっていう線引きは難しいですね。ただどのくらい伝統に対して敬意を払っているかが大切になると思います。」
 頂点に立つ林氏。道を拓き、先駆者として走り続けてきた。郷土芸能としての太鼓ではなく、自分の魂を注ぎ込んだ独自の新しい音のために。その音は誰もが持つ心臓の鼓動なのかもしれない。そして体内にいた時の、母の心臓の音への回帰なのかもしれない。

文:本誌編集部記者

Eitetsu Hayashi
林 英哲
1952年広島に生まれる。和太鼓演奏家。1971年に「佐渡國・鬼太鼓座」へ参加。1981年には太鼓演奏グループ「鼓童」を自身の命名により立ち上げる。そして、翌年の1982年に和太鼓独奏者として活動を開始。以後、国内はもとより世界各地での公演で好評を博している。近年では、プロデューサーとして映画や演劇、CM、創作太鼓の作品の作曲、指導をこなし、エッセイ等の執筆も多数。1997年には第47回芸術選奨文部大臣賞、2001年には第8回日本文化藝術振興賞を受賞。また、国立三重大学などの客員教授を経て、2004年から洗足学園音楽大学の客員教授に就任。
林英哲オフィシャルサイト http://www.eitetsu.net

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