Vol.194/2014/03
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【加賀の潜戸(くけど)】「旧潜戸」には、賽の河原という砂浜があり、亡くなった子どもの遺品が供えられ、供養するための石の塔が何百と並ぶ。外から見ると女性器の形で、母の胎内をあらわすという。 |
1890(明治23)年4月、日本を訪れたラフカディオ・ハーンは横浜に4カ月滞在後、島根をめざした。岡山側から山陰に近づくにつれて、「諸願成就 御祈祷修行」という美保神社の白い御札が青々とした田に目につくようになり、その数がどんどん増えていく。仏教と結びつきが深い庚申は、猿田彦命と名がかわり神道の神様になる。「もはや仏陀の顔をさがそうとしても無駄である」と記す。
松江の町は、城を中心に黒い瓦が波打つように広がる。宍道湖と日本海を結ぶ大橋川沿いの旅館に落ち着いたハーンは、木造の松江大橋をカラカラと音を立てて歩く音で目覚める。多くの人が早朝、パンパンパンパンと柏手を4回打って太陽に向かって拝み、その後、西の杵築大社(出雲大社)の方向を向いて柏手を打って、また拝んでいた。
島根には神が生きている−。多神教のギリシアに生まれたハーンは、懐かしさを感じたようだ。
紹介状を得て出雲大社も訪ね、宮司にも面会した。出雲大社の宮司は、国造家と呼ばれる千家氏が代々ついでいる。国造家は、先祖代々諸国を治めていた国造(くにのみやつこ)に由来する。律令制が発足して他の地域では中央から派遣される国守に権力を奪われたが、かつて強大な王国があった出雲には国守が置かれず、国造が政治的支配権を保持しつづけてきた。
出雲大社の国造は古代出雲王朝の末裔とされ、宗教的な権威をもち続けていた。
地面に直接足をつけてはならず、外出時は必ず駕籠に乗った。常に神火をたずさえ、その火で炊かれた飯だけを食べた。明治初期、千家尊福がこれらの戒律を撤廃して旧出雲国内を巡ると「生き神様」として熱狂的に歓迎された。伊予(愛媛)を巡行すると、その風呂の水をもらいに多くの人が訪れた。「天子様」とあがめられた明治天皇と同様の位置付けだった。千家尊福はその後、明治政府に忠誠を誓って政治家に転身し、埼玉県や東京府の知事を歴任し、司法大臣になった。
明治維新で東京に遷都した時、明治天皇は真っ先に氷川神社(さいたま市)に行幸した。埼玉と東京の荒川沿いにだけ集中的に分布する氷川神社の総元締めで、「武蔵一宮」と呼ばれている。スサノオや大国主といった出雲系の神々を祀り、「氷川」の名は出雲の国の「斐伊川」に由来する。これらの事情は原武史の「『出雲』という思想 近代日本の抹殺された神々」に詳しい。