Vol.192/2014/01
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「砂の器」にも登場した亀嵩駅。 |
松本清張の小説「砂の器」で、殺人事件の被害者は犯人とズーズー弁をしゃべっているのを目撃された。刑事は東北に向かったが、そこには何も見つからない。実は、被害者は島根県の亀嵩(奥出雲町)の出身だった−。この小説の映画化で、出雲には西日本で唯一ズーズー弁が残っていることが全国に知られるようになった。
荒神谷博物館長の藤岡大拙さん(76)は、京都大学に進学し、6年後に帰郷した時、出雲弁がみじめに思えてならなかった。戦前、師範学校を卒業した出雲出身の新任教師は、まず共通語に近い県西部・石見の学校に言葉の矯正のために赴任させられた。戦後もしばらくは「出雲弁はだめ」と学校で指導していた。沖縄の「方言札」と同様の差別が島根にもあったのだ。
では、なぜズーズー弁が西日本で出雲にだけ残ったのか。
かつて出雲には強大な「出雲王朝」があった。朝鮮半島から渡ってきたスサノオノミコトが建国し、オオクニヌシがヤマトの王朝に「国譲り」したと古事記に記されている。梅原猛は「神々の流竄」で、出雲神話は大和に伝わった神話を出雲に仮託したものにすぎないと主張した。出雲神話にふさわしい遺跡がなかったためだ。だが、1984年に荒神谷遺跡、1996年には加茂岩倉遺跡が発見されて大量の銅剣・銅鐸・銅矛が出土し、巨大な王権が存在したことが明らかになった。梅原は2012年に上梓した「葬られた王朝−古代出雲の謎を解く」で自説の誤りを認め、出雲王国は岡山や近畿、北陸にまで及ぶ巨大な王国だったと断じている。
藤岡さんによると、朝鮮半島から渡ってきた人と南方から来た人が九州で交わることで日本語が成立した。それが瀬戸内海沿いに伝わったのが関西系の言葉で、日本海側に伝わったのがズーズー弁だった。
他の国々は、大和という中央の文化を受け入れたが、強大な力を誇った出雲は大和文化の受け入れを拒み、貝のように自らを閉ざした。出雲の人々は伊勢参りにも四国遍路にも西国三十三カ所の巡礼にも出掛けなかった。そうした鎖国体制が、ズーズー弁という古代語を残した——。