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現役新聞記者が、過疎化・少子高齢化が進む日本を追う

ムラの行方 藤井 満

Vol.191/2013/12

第20回「たたらの里の暮らし考(20)」


朝鮮人参の管理を担当する役所「人参方」の門跡 何十基もの山車が、松江市中心部を巡る秋の「鼕行列」

雨にぬれるとほのかに青く見えるところからその名が付いたといわれる。かつては料亭や旅館が両側にならび、夜になると三味線の音が響いたという。

美保神社の周囲には名物のイカ焼きの屋台が出ていた。


 正月の初詣は独特だ。
 三角さんが子どものころ、除夜の鐘が鳴って目を覚ますと枕元に新しい高下駄が置いてある。それを履いて神社に向かった。人に出会っても口を利いてはならない。提灯を手にした無数の人々が、下駄の音だけガランゴランと鳴らして歩いた。今でも、トウヤ(頭屋)と呼ばれる世話役は、正月の夜中にお参りする際に人と顔を合わせたら一度家にもどって出直す。「シーンとした石畳に下駄の音だけが響くのは重々しくておそろしげだった」。三角さんは振り返る。
 江戸時代以来の繁栄を謳歌した美保関は、昭和40年代に自家用車が普及して船便がなくなって急速にさびれる。青石畳通りの商店は閉じられ、空き家だらけに。旅館以外には住民が集う飲食店もなくなった。
 2005年の市町村合併で松江市の一部になり、公民館活動などが集約されて元気がなくなった。06年には小学校統合で地区から学校が消えた。
 「私らは海や大山を見たり、鯨やイルカを見たりしながら学校に通った。イカ焼きのおばちゃんにイカをもらったりして町の人に育てられた。今はスクールバスで往復して、車内で騒ぐと叱られる。道草もできないのがかわいそう」。夫と旅館を経営する福間昌子さん(55)は話す。
 合併後、危機感を抱いた旧美保関町の住民は町おこし組織「活性化協議会」を結成する。福間さんは「協議会」に参加する夫から「女性を集めて活動してくれ」と求められた。民生委員や婦人会長、老人会役員を務める50歳代から70歳代の女性に声をかけ、8人で「つわぶきの会」を結成。かつて茶道や生け花の教室があった裏路地の古民家で、喫茶店と総菜の店を兼ねる「入来舎(はいらいや)」を開いた。
 当初はコーヒーと菓子を提供し、国指定重要文化財の薬師如来座像がある仏谷寺のガイドをするだけだったが、炊き込みごはん(200円)やたこ焼き(150円)、コロッケ(50円)、パン(150円)と、しだいに手作りメニューを増やしてきた。北前船がもたらしたと伝えられる、米粉と砂糖を焼いた「かた菓子」も復活させた。北前船の史料や船徳利、明治・大正時代のマッチのラベルなど、古い家に保管してあった品々も並べている。店番はボランティアだが、年2、3回は1万円程度の「ボーナス」を支給できるようになった。
 「彼女たちは地道に活動を広げ、どんどん元気になってきた。1日3食365日、家族の健康を担ってきた女性の底力ってすごいな、って思わせられました」。入来舎の活動を見守ってきた松江市美保関支所の原美江支所長は評価する。
 「お店が次々に消えて町の人が集まる場がなかったから、ここが小さな公民館のようになっています。お茶を飲みながら、お年寄りの話を聞いて、ここにしかない伝統や歴史を次の世代に伝えていく場にしていきたいですね」と福間さんは夢見ている。

(2010年12月取材)