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現役新聞記者が、過疎化・少子高齢化が進む日本を追う

ムラの行方 藤井 満

Vol.190/2013/11

第19回「たたらの里の暮らし考(19)」


朝鮮人参の管理を担当する役所「人参方」の門跡 何十基もの山車が、松江市中心部を巡る秋の「鼕行列」

市道にまたがる屋根は、松江藩の重要な収入源だった朝鮮人参の管理を担当する役所「人参方」の門跡。

巨大な太鼓に屋根をのせた何十基もの山車が、松江市中心部を巡る秋の「鼕行列」。白潟地区も大賑わいに。


 07年、高齢者を講師にして歴史を学ぶ「座談会」や「地域学習」を始める。  江戸時代、松江藩の主要産業である朝鮮人参やロウソク作りの拠点が白潟地区にあった。ロウソクを扱う豪商は、材料のハゼの実を仕入れて蔵屋敷に保管して加工し、関西などで売り、各地の特産を松江に持ってくる「総合商社」だった。そして、豪商で働く職人らの住む長屋が、建てられたのが肥後屋小路、備前屋小路、伊予屋小路といった商人の名を冠した「小路」だった−。
 08年からはお年寄りを案内役に「小路」の歴史をたどるフィールドワークを計6回催した。毎回30人前後が集まり、「あすこはおしめを洗ったがあ」「ここに井戸があって、おばさんらが井戸端会議をしちょった」「このエノキの木は火から守る神様で、火事になっても焼けんかった」などと語り合った。
 お年寄りの記憶と、島根大学白潟サロンに出入りする研究者らの知識を総合して53本の小路の位置を特定し、09年10月、「小路」の今昔を紹介する冊子や地図を完成させた。2010年5月には、明治初年のにぎわいを再現するイラスト入りの案内板7枚を街角に設置した。

   松江藩主の松平不昧がおこしたとされる和菓子文化は、明治政府の秩禄処分で士族が没落して衰退した。「山川」や「若草」などの銘菓の製法も忘れられていた。それを明治末から大正にかけて力をつけた白潟の町人が復活させた。そんな歩みを知るほど、それぞれの時代の町人の力強さに仁田さんは圧倒されるという。
 「商人の町だからか独特の包容力がある。よそ者の私が新しいことをやっても『とりあえずやってみないや』と許容してくれる。中心市街地は衰退し、高齢化し、課題は山積みだけど、過去の歴史を見ても、絶対にこのままつぶれる町じゃないって確信できるようになりました」と仁田さんは話す。

(終)



〈白潟地区〉

松江市中心部にあり、戦前は大橋川や天神川の水上交通が盛んで、松江大橋に面した白潟本町から天神町、竪町まで三つの商店街がつらなる繁華街だった。だが、中心市街地のドーナツ化により少子高齢化が進み、2010年2月末現在、人口3,397人、高齢化率は34%。