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現役新聞記者が、過疎化・少子高齢化が進む日本を追う

ムラの行方 藤井 満

Vol.187/2013/08

第16回「たたらの里の暮らし考(16)」


毎晩遅くまで人形劇の準備などに追われた

かつてユースホステルだった隠岐神社境内の建物が青年団のたまり場だった。毎晩遅くまで人形劇の準備などに追われた。

■離島のムラの人づくり(中)

□青年団

 浜見敏明さん(51)=海士診療所事務長=は1982年、大学を卒業して役場に就職すると、「役場職員は率先して入れ」と先輩に誘われて青年団に入団する。
 当時、若い男女が集う場は青年団しかない。午後7時過ぎからの集まりが何よりの楽しみになった。その年、女性団員に誘われて県の人形劇の大会に参加した。成績が奮わなかったことで奮起し、その後、団全体で人形劇に取り組むことになる。
 シナリオは郵便局員が書き、夜遅くまで人形や大道具をつくる。休日には、練習を兼ねて町内各地で子ども相手に上演し、反応を見て改良を重ねる。プロの「一座」のように年中島内を興行して歩いた。5年後、東京で開かれた全国大会で優勝した。「『最優秀、島根県海士町』と呼ばれたときは感動しましたね。本当に真剣に遊んでました」
 青山富寿生さん(45)=交流促進課長=は、高校を卒業して84年に入団した。はじめは、人形劇などの準備でけんか腰で議論し、表彰式でオイオイと泣く姿に「いい大人が…」とあきれたが、そのうちにのめりこんだ。
 人形劇の上演で地域の人から「寸志」をもらい、ビアガーデンや「青年祭」を開いて百万円単位の活動資金を工面した。ある日、事務局長だった青山さんと当時の団長が6畳の部屋に1万円札を敷きつめたら、手にはまだ札が余った。「こりゃ海外旅行に行けっで」と顔を見合わせた。実際88年には、稼いだ資金と町からの助成金で団員30人余りが中国を1週間視察旅行した。