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現役新聞記者が、過疎化・少子高齢化が進む日本を追う

ムラの行方 藤井 満

Vol.184/2013/05

第13回「たたらの里の暮らし考(13)」


菅原天満宮から御神体をわけてもらってまつった天満宮 無数の神話を育んできた斐伊川

明治時代の西日登小学校の開校を祝って、当時の青年が、菅原天満宮から御神体をわけてもらってまつった天満宮。今も毎年8月に、小学校竣工記念の行事が催されている。

無数の神話を育んできた斐伊川。八岐大蛇とは、洪水で荒れ狂う斐伊川のことだとも言われている。


 戦後、連合国軍総司令部(GHQ)の指導で全国にPTAが設立されたときも、「親と教師だけでなく全戸で学校を支える」と、PTAではなく「西日登教育振興会」をつくった。その後「西日登振興会」に改組され、地域おこしも担うようになった。
 振興会は、06年に16歳以上を対象にしたアンケートを実施。地区内の13自治会に将来計画をつくってもらい、それらをまとめて地区全体の活性化計画とした。今年(2010年)は地域活動のリーダーを養成する研修会、来春には各自治会の取り組みを発表する「地区振興大会」を開く予定だ。
 「自治会活動を活性化させて、地域を担う後継者を育てたい。学校と家庭だけでは地域を巻き込む運動は生まれない。振興会などの組織が呼びかければ、子どもがいない人も高齢者も活動に参加できる。人と地域の自立を促す社会教育の大切さは戦後直後も今も変わりません」と細木さんは語る。

(完)




□メモ 加藤歓一郎の歩み□

 加藤は1905年、加茂村(加茂町を経て雲南市)に生まれた。当時の出雲地方は、小作料が高く、貧富の差がきわめて激しい地方だった。家庭環境には恵まれずに育ち、松江市の師範学校に進学する。
 札付きの悪だったが、あるとき突然キリスト教に回心する。出雲大社の信仰が厚い故に出雲は「耶蘇教」への差別が根強く、布教困難地とされていた。そんな山村で布教活動を始めた。
 教育勅語と国定教科書による教育に対抗して、自主的な意欲と創造力を高める大正デモクラシーの「新教育運動」の影響を受けて実践した。
 1934(昭和9)年には神社参拝を拒み、処罰しようとする圧力に対して、条件つきながら信教の自由を記した帝国憲法を盾に対抗した。だが世の中は次第に右傾化する。神社に参拝しなければ教師を辞めさせられ、教師を辞めれば徴兵されることになる。特高の監視のもと、だれにも相談できず、孤独に沈むしかなかった。
 一方、卓抜した教育実践によって表舞台に立つ加藤自身も、しだいに国家主義に感化される。イエスへの殉教をいとわぬ心情が、国のためには一切を惜しまぬ憂国の心に転じた。「もし私が信仰を知らぬなら、ここまで純粋に愛国心に生きることはできなかったと思う」と加藤は後に振り返っている。
 戦中でさえもナチスを批判していた南原繁の影響を受け、戦後はふたたび回心する。47年から58年まで日登中学校校長として、「生活綴り方」を活用した学校教育と社会教育を「産業教育」として体系化した。村民有志が聖書などを学ぶ「土曜会」も主催し、キリスト教の伝道にも努めた。「教育・農・信仰 ひと粒の命 加藤歓一郎の遺言」(2005年、山陰中央新報)によると、52歳で教員を辞めた背景には、文部省が導入を進めた勤務評定への反発があったという。1977年死去。