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現役新聞記者が、過疎化・少子高齢化が進む日本を追う

ムラの行方 藤井 満

Vol.183/2013/04

第12回「たたらの里の暮らし考(12)」


加藤歓一郎顕彰資料室

日登交流センター(公民館)にある加藤歓一郎顕彰資料室。約3,000冊の蔵書や、日登中学の生徒の文集「ひのぼりの子」などが展示されている。

■日登村と加藤歓一郎(中) 結婚純化(2010年5月取材)

 結婚は「家」と「家」を結ぶ一大行事だった。日登村(島根県雲南市)では、借金をしてでも三日三晩どんちゃん騒ぎを繰り広げた。若者たちは道ばたの地蔵を婚家の前に運んでドスンと置き、祝儀を受け取った。地蔵のように嫁が腰を落ち着けることを願う風習だった。
 日登中学の近所に住む陶山直利さんの家は1町(1ヘクタール)の田をもつ地元の名士だから、当然、盛大な結婚式を期待された。だが1960年3月、陶山さんは親族の猛反対を押し切って会費100円の茶話会形式の式をあげた。
 雪の降る当日、親類や青年団の仲間たち約60人が集まった。縁側までぎっしり埋まった人々の前には30円の生菓子2個とお茶。小学校から借りたオルガンの伴奏で賛美歌を歌い、「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない」と加藤歓一郎・日登中学校長が憲法24条を朗読した。その後、婚姻届にサインした。
 派手な結婚式は貧しい家には負担だ。だれもが「個人」として結婚できるよう、加藤の指導で教え子たちが結成した「結婚純化同盟」は、自立した夫婦の人生の門出にふさわしい簡素な式の普及を目指していた。
 日登には1946年設立の青年団があったが、演芸会や運動会などの行事中心の活動が行き詰まった。加藤の影響のもとで53年に学習・実践集団としての「日登村青年協議会」が発足した。「結婚純化運動」もここから生まれた。
 日登の青年団長だった陶山さんは、盛大な式を望む家族と尊敬する加藤の教えの狭間で悩んだ。もうけの機会を失う料理店や酒屋などから非難され、「大事な娘をもらうのに、酒もださん式があーか」などと陰口も言われた。
 式が終わったあと、めったに人をほめない加藤がしみじみと言った。
 「おまえもえらかったのぉ。よぉがんばったなあ」