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現役新聞記者が、過疎化・少子高齢化が進む日本を追う

ムラの行方 藤井 満

Vol.182/2013/03

第11回「たたらの里の暮らし考(11)」


かつて日登中学があり、今は寺領小学校が建っている通称「赤土の丘」 日登中の生徒の作品をまとめた文集「ひのぼりの子」

かつて日登中学があり、今は寺領小学校が建っている通称「赤土の丘」。加藤と教え子たちはこの丘を切り開いて畑をつくっていた。

加藤が力を入れた「生活綴り方」による、日登中の生徒の作品をまとめた文集「ひのぼりの子」。


毎年発行した文集「日登の子」は、無着成恭による山形県山元村(上山市)の「山びこ学校」とならんで戦後民主主義教育の実践と評価された。「友達や先輩の内面を知って、すごいなあ、と思うことが多かった。60代後半の今でも同級生はすごい仲が良い」、「きれいごとだけでなく、地域や家庭の課題を見つめる目が育ったかな」と当時の教え子は「綴り方」の効果を振り返る。
 「魂の点火者−日登教育と加藤歓一郎先生(1998年、福原宣明)」によると、加藤は1951年に無着のいる山元中学を訪ねている。日が暮れるまで綴り方の実践について語り合い、中学の宿泊室に泊まった。「山びこ学校」を象徴する無着の教え子で、当時定時制の農業学校に通っていた佐藤藤三郎にも出会った。
 無着はその後、村人から「アカ」と批判され54年に離村を余儀なくされる。無着の名を村で語ることさえタブーのようになった。無着を深く尊敬する佐藤も次第に無着の教育に疑問を募らせ「農村の生活を改善するための具体的な技術や知識を軽視した」と批判し、篤農家の道を歩むことになる。
 そんな「山びこ学校」の3年後を予言するかのように、加藤は視察後にこう語った。
 「職員室はほこりだらけ。いつ掃除したかわからない。これでは長くつづくまい」。綴り方教育についても「社会矛盾を見つめるという問題提起だけであって、そこには問題の解決法が示されていない。自分はひとつこの点の解決に取り組んでみたい」と述べた。その思いが無着には欠けていた「産業教育」の実践につながったという。
 子どもを育てるには、卒業した子を受け入れる地域づくりも不可欠だ。加藤は「社会教育」にも力を注いだ。1950年に公民館を設立し、週末は自宅で「青年学級」を開いた。そこで育った青年たちが、台所の改善や貯蓄推進などの生活改善運動を進める。まさに「全村教育」だった。

 陶山さんは高校卒業後、農業を継ぐが、生活を安定させるため36歳で電機会社に就職する。平日は勤め、週末は田畑を耕す生活を71歳まで続けた。
 10年ほど前、菜種を栽培し自家製の油を復活させ、昨年(09年)は公民館活動の一環で20人に菜種づくりを広めた。茶もシイタケも味噌も手作り。今年(10年)はゴマ栽培も復活させる。近所の寺領小学校の児童に野菜作りも指導している。
 「加藤先生の下で土を耕して自然の中で工夫しながら働く喜びを知ったから、農作業を辛いと思ったことがない。『捨て犬でもゴミ箱あさって食っていく。人間なら人の世話、地域の世話をせないけん』と教えられたから、ものづくりが好き、仕事が好き、地域のお世話が好きになれた。すべて先生のおかげです」

(続く)