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現役新聞記者が、過疎化・少子高齢化が進む日本を追う

ムラの行方 藤井 満

Vol.180/2013/01

第9回「たたらの里の暮らし考(9)」


雪に覆われた布施地区

雪に覆われた布施地区。法人と集落が一体となって、農作業から川の掃除まで担っている。

 なだらかな山に囲まれた標高300mの谷筋に、雪に覆われた田が折り重なっている。典型的な中山間の集落だが、プレハブの農機具倉庫には、平野部の穀倉地帯で見かける大型コンバインや、冷暖房付きのトラクターが並ぶ。「1台600万円。個人じゃ絶対買えません」と森田仁政さん(70)。
 邑南町・布施地区の布施第2集落は、集落内の20戸すべてが加入する農事組合法人「ファーム布施」が高性能農機具を2セット保有し、16ヘクタールの田を共同で作っている。週末は、広島などに勤める住民も作業に参加し、夕方は酒を酌み交わす。「集落全体が大きな家族みたいなもんです」。高校の元数学教師で「ファーム」の代表理事をつとめる森田さんは言う。
 かつてはいさかいが絶えない地区だった。布施村という人口約1,700人(1955年)の独立村の一部だったが、戦後直後の48年に農協を結成する際は内紛で「布施村農協」と「布施第一農協」に割れた。さらに村民の対立が高じて、57年の昭和の大合併では東半分は大和村(現在は美郷町)の一部になり、西半分は瑞穂町(邑南町)になってしまった。
 その後も「水争い」で、隣近所でもめるなど住民間の争いは絶えない。農協に勤めながらファームに参加する松崎寿昌さん(48)が子どものころ、隣近所の2人が同時に瑞穂町議選に立候補した。ひと晩中かがり火をたいてお互いの陣営を見張る。投開票日の夜、役場職員だった松崎さんの父を町幹部が訪ねてきて「どっちに先にあいさつしよう?」と相談した。順位が確定するのを待って、上位当選者から訪問した。「よく言えば、けんかするほど元気がある地域でしたね」。
 ところが、過疎とともにその「元気」が失われていく。
 邑南町側の旧布施村3集落の人口は、昭和の合併があった57年の719人から226人(2011年1月)に減った。高齢化率は5割になった。ほとんどの家は後継者がおらず、松崎さんが農業大学校を卒業して帰郷した時、20代は2人だけだった。
 農地を集積して集落単位で経営すれば県の補助を受けられると知った松崎さんらは2001年ごろ、集落営農づくりを周囲に働きかけた。だが「自分の田を取られる」「法人なんか作ったら、若いもんは休みもなくなる」と長老層から反対が相次ぐ。1セット約1千万円の農機具を更新したばかりの人の反発は特に大きかった。
 話し合いは滞り、集落一体での法人化をあきらめかけたころ、町村合併の話が本格化する。布施地区は、旧瑞穂町役場から約10km離れた辺境だ。合併するとさらに役場は遠のいてしまう。「合併したら役場から目を向けてもらえなくなる」という危機感が募った。
 米価下落も追い打ちをかける。93年に1俵(60kg)2万3,000円(指標価格)だったのが2010年度は1万2,000円(相対価格)まで落ち込んでいる。もはや個人の農家で数百万円の農機具を購入して経営できる水準ではない。「わしら年寄りには(法人経営は)できん。若いもんが中心にならんとやれんぞ」という長老に対し、松崎さんら若手3人は2002年夏、「わしらが中心になるからフォローしてくれ」と宣言した。
 その後、毎週のように会議を重ね、2003年11月に結成にこぎつけた。「集落が消える」という未曽有の危機感が、政争のムラを団結させたのだった。
 「ファーム布施」の中心メンバーは、平日は広島市などで勤めているから、農作業は週末に集中する。だが田植えや稲刈りの時は人手が足りない。そこで都会に出た布施出身者に目をつけた。