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現役新聞記者が、過疎化・少子高齢化が進む日本を追う

ムラの行方 藤井 満

Vol.179/2012/12

第8回「たたらの里の暮らし考(8)」


「谷笑楽校」として再生された旧谷小学校

子どもに卓球を教える白珊さん。短期間のうちに全国有数のクラブに育て上げた。

 児童数87人の谷間の小学校に2010年6月、県内外の小学生とその保護者ら約300人が集まった。体育館には20台の卓球台がならび、歓声の合間にピンポン球の音がこだまする。70人を超えるボランティアが審判や受け付けなどの仕事をこなし、夜は、会費千円で大人たちの懇親会が催された。
 稗原小学校(出雲市稗原町)で毎年開かれる小学生の卓球大会「白珊杯」は、約150人の出場者全員の順位をつけるリーグ戦形式だから、2日間で千数百試合をこなす。「トーナメントとちがってボーッするひまもない」「全国のクラブと交流できる」と好評で、最近は九州や近畿から参加するチームもあるという。
 JR出雲駅から南東約10キロの山間に位置する稗原は、1955年までは水田や畜産、炭焼きで生計を立てる独立村だった。ムラの中心の市森神社の宮司を兼ねる古瀬倶之医師(64)は、鳥取大医学部の付属病院に勤めていたが、父の跡を継ぐため86年に帰郷した。その年、地区の卓球大会で優勝すると、30代の男女7人で作る卓球同好会に誘われた。
 練習場の小学校の体育館に物置小屋から卓球台を運ぶのはひと仕事だ。だだっ広い体育館では球拾いも大変だ。そのうち「卓球専用の体育館をつくろうや」となり、8人で600万円集めてプレハブ卓球場を建てた。週1回の練習だけではもったいないから、子どもの卓球教室を開いた。
 古瀬さんの三男は中学3年のとき、奈良であった全国大会に出場した。全国レベルで活躍する子の技術は、古瀬さんが学生時代に学んだ卓球とはレベルが違う。「私のような古いピンポンではなく、東京から月2回でも一流の指導者を呼べまいか」と考えた。
 卓球用具メーカーの知人に聞くと、「中国から若いレッスンプロを招いて住み込んでもらったら?費用は変わりませんよ」と言う。96年、本場中国の学生の大会で全国優勝したこともある当時26歳の白珊さんがやって来た。
 稗原の住民の大半は外国人と接した経験などない。「中国人を呼ぶなんて、なに考えちょらいかいのぉ」と戸惑う人もいた。だが、白さんが入居する家にはベッドもソファも炊飯器も……、住民が持ち寄って揃えてしまった。「田舎だと聞いて最初は不安だったけど、料理も買物も手助けしてくれて助かりました」と白さんは振り返る。
 本場仕込みの白さんの指導に、子どもたちは食らいついた。県内で中位以下だった「稗原スポーツ少年団(稗原クラブ)」は3年後には優勝を争う強豪となった。08、09年には、小学生の全国大会「全国ホープス選抜大会」男子団体戦で2年連続で準優勝を果たした。
 稗原小学校の児童数は最盛期の500人超から87人に減った。かつて稗原には、剣道と野球、バレーボール、卓球のスポーツ少年団があったが、剣道と野球は他地区と合併して「出雲南スポーツ少年団」となり、バレーは解散した。「稗原」の名を冠するのは卓球だけになった。
 白さんが来日した翌年の97年から開催している「白珊杯」は年々参加者が増え、稗原小体育館では手狭になってきた。5年ほど前、一度だけ出雲市中心部に会場を移すと「稗原でやりつづけて!」という声が住民から相次いだ。
 いま大会運営は、稗原クラブの子の親や、白さんの教え子だった若者らが担う。その中から、神社の氏子活動など地域行事にかかわる人も出てきている。「稗原にも優秀な人材はいるのに現役世代は外で勤め、絆が薄まっている。人々の目を地域に向ける役割を卓球が果たしたのはうれしいですね」と古瀬さんは話す。