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現役新聞記者が、過疎化・少子高齢化が進む日本を追う

ムラの行方 藤井 満
Vol.177/2012/10

第6回「たたらの里の暮らし考(6)」


「谷笑楽校」として再生された旧谷小学校

「谷笑楽校」として再生された旧谷小学校

 広島県境の中国山地を分け入った島根県飯南町・谷地区のどん詰まり。山が左右に迫る谷沿いの道を2キロ上ると突然、青々とした棚田が開けた。四方を山に囲まれた標高500メートルの程原集落は、平家の落人が拓いたと伝えられている。  かつては、たたら製鉄、その後、燃料に使う木炭を焼く煙が、山のあちこちに立ち上っていた。周囲から隔絶した集落だから、結束力はとりわけ強かった。
 釣堀を営む安江良夫さん(74)は3歳のとき、父につれられて木炭を焼くため隣町の赤名町(赤来町を経て現在は飯南町)から引っ越してきた。
 程原の人々は、周囲の国有林の原木を毎年払い下げてもらい炭を焼いていた。勤労者世帯の平均月収が約2万9千円だった1955年ごろ、4、5万円の収入があった。15軒の集落の青年団は十数人を数え、集落内だけで野球の試合ができるほどだった。
 だが、石油やガスの普及とともに、急速に木炭の需要は減る。谷地区が属する旧赤来町(2005年から飯南町)の木炭生産量は、1955年の2,506トンが65年には409トンに激減する。同時に若者が都会に流出しはじめる。
 危機感を抱いた15軒の住民は62年、シイタケを中心に集落全体で協同経営する「程原産業組合」を結成した。
 国有林から伐採した原木でシイタケをつくり、ワサビも栽培する。収入を安定させるため月給制を導入し、公的年金に上乗せする企業年金にも加入した。日用品を揃える「生活店舗」を開き、農繁期に当番がまとめて夕食を調理する「共同献立」も始めた。書籍を購入して「組合文庫」も設けた。
 営林署(森林管理署)と共同で植林して数十年後に伐採して収益を分け合う「分収育林」契約を交わし、計40ヘクタールの人工林を造成した。「これら(の杉)が大きゅうなったら2,000万円になるぞ。大金持ちじゃ」と夢見ていた。
 ところが、木材価格は64年の輸入自由化以降低迷する。若者は都会に出て行く。「出稼ぎはしない」をスローガンに集落内で働き続けるが、都会の息子から仕送りを受ける家と、組合からの収入に頼る家の格差が広がる。近くに縫製工場が進出し、「外で働きたい」という声が高まった。最大2,000万円あった組合の借金が解消したこともあって82年に「産業組合」は解散した。結成時の15軒が10軒に減っていた。  安江さんは解散が決まってホッとした。「山仕事で忙しいから出稼ぎは禁じられていた。山では1日2,000円にしかならん。子どもを養っていけるようなもんじゃなかった。出稼ぎするようになって1日5、6,000円も稼げた。女房も縫製工場で現金をもってくるようになったけん、楽になりました。今でも集団営農だなんだ言うけど、補助金や助成金がなきゃつづきゃせん。協業なんて、うまくいくものではありませんな」と語る。
 高度経済成長と農産物の輸入自由化という「グローバル化」で全国的に農村が衰退する中、社会主義的協同経営のユートピアを目指す実験も20年間で敗れたのだった。
 程原には、2010年現在8軒12人が住み、うち11人が65歳を超えている。