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現役新聞記者が、過疎化・少子高齢化が進む日本を追う

ムラの行方 藤井 満
Vol.174/2012/7

第3回「たたらの里の暮らし考(3)」


吉田小学校民谷分校

吉田小学校民谷分校。2012年3月に閉校した。最後の児童は5人だった。

 平野部で梅が見ごろをむかえた2011年2月末、標高500メートルの旧吉田村(雲南市吉田町)の民谷地区は1メートルの雪に覆われていた。雪の重みで屋根がひしゃげた家もある。「年寄りじゃ雪下ろしもできん。春になったら帰るって、子どもの家に出た人も多いが、留守中に家が壊れたらどうなるのか…」と木村晴貞さん(67)は表情を曇らせた。
 民谷地区の高齢化率は4割ほど。木村さんが子どものころ1学年17、8人いた吉田小学校民谷分校は、全校で5人になった。  木村さんは、田畑以外に1970年からシイタケを栽培している。肉厚で香りが高く品質には自信がある。だが、当初は加工も販売も農協まかせだった。工業製品はメーカーが小売価格まで見すえて原価を計算するのに、なぜ農家は自らの作物の値段も決められないのか…。
 疑問に思って75年に乾燥シイタケの加工・販売に乗りだした。「販売や加工は、まかせてください」と農協は不快感を示す。「協力してくれといっても無理かもしれんが、あたたかく見守ってくださいよ」と頭を下げた。小売店を訪ねて少しずつ販路を広げ、松江市や鳥取県米子市などの百貨店でも扱われるようになった。
 村の農産物をPRするため、青年団や婦人会に呼びかけ「吉田ふるさと会」を結成する。シイタケ販売を通じてつながりができた松江市などの量販店で餅つきを催し、米や山菜を直売した。
 囲炉裏を囲んでムラの将来を考える「塾」も数人の仲間と結成した。それが、全63人のメンバーが3年間かけて村の将来を考える「村づくり委員会」に発展した。
 委員会の議論をもとに吉田村は、郷土資料館(鉄の歴史博物館)を1984年に整備し、「たたら製鉄」を村おこしの核に据える「鉄の歴史村」を宣言した。さらに、ヒトの流れをモノの流れにつなげるため、地元の農産物を加工・販売する第三セクター「吉田ふるさと村」を85年に創設した。役場や農協、森林組合のほか、村民100人が株主になった。全国の「三セク」の先駆けだった。木村さんは実質上の経営トップである常勤の取締役に就任した。