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現役新聞記者が、過疎化・少子高齢化が進む日本を追う

ムラの行方 藤井 満
Vol.172/2012/5

第1回「たたらの里の暮らし考(1)」


高殿と桂の巨木

高殿と桂の巨木

菅谷山内。大きな建物が炉を収めた高殿。
その左に桂の巨木がある。

高殿の内部。中央はたたら製鉄の炉。
左端が村下(技師長)の座るスペース。

 最先端技術を武器にした「エボシ御前」らは、「シシ神」の森の木々を伐採して焼いた木炭で鉄をつくり、莫大な財をなした。
 日本最大の「たたら製鉄」地帯だった中国山地にも、幾人もの「エボシ御前」がいた。中でも、代々の当主が長右衛門の名を継ぐ雲南市吉田町(平成の合併前は吉田村)の田部家は「日本一の山林王」の異名をもつ富豪中の富豪である。戦後の農地改革でも山林は対象とされなかったため、今でも膨大な山を所有しつづけている。
 室町時代から「たたら製鉄」を営んできた田部家は、明治以降は林業を手がけた。フジテレビ系列の山陰中央テレビの実質的なオーナーであり、ケンタッキーフライドチキンやピザハットのフランチャイズ経営にも乗り出している。
 第23代の田部長右衛門は、地元新聞社の社長などを経て、島根県知事を3期務めた。酒屋の息子だった竹下登首相の政界デビューを後見人として支援した。参議院のボスとして君臨した青木幹雄氏も23代の秘書を勤めていた。
 青木氏が2010年、病気を理由に長男の和彦に地盤を世襲させる際には、「田部家にお返しするのが筋じゃないか」という声も島根県の政界ではささやかれた。竹下や青木は、島根では田部家の奉公人にすぎないのだ。
 田部家の本家は、今も旧吉田村の中心部にある。2010年春にはフジテレビに勤めていた30歳の真孝氏が帰郷し、第25代当主となった。

 旧吉田村(雲南市吉田町)の中心部から北へ2キロ、標高350メートルの山奥の谷間に、20数軒の家が長屋のように密集する集落「菅谷山内(さんない)」がある。「山内」は、「たたら製鉄」に従事する人々が住んだ集落だ。製鉄の炉を収める柿葺き(こけらぶき)の「高殿」は、高さ約8.6メートル、18.3メートル四方あり、国の重要文化財に指定されている。1751年から1935年まで鉄を生産し、「たたら製鉄」終了後は木炭の保管小屋として使われてきた。「高殿」の脇にある桂の木は、4月はじめの3日間に一斉に芽吹き、まるで鉄を溶かす炎のように真っ赤に染まる。
 たたら時代の「菅谷山内」では、田部家の使用人として、山も土地も家もいっさい貸し与えられていた。私有財産がほとんどないかわりに家賃もいらない。働きに応じて米や金をもらい、「だんさん(旦那さん)のおかげ」で生活していた。現在は12世帯28人ほどの集落に、かつては40世帯、約170人が住んでいたという。
 「たたら製鉄」終了以降も、田部家の山仕事で生計を立て、「山内」の家々の長男は、家を継いで田部家の炭焼きに従事することが半ば義務づけられていた。1965(昭和40)年、封建的な制度をあらためることになり、家屋を退職金がわりに分配され、自分たちの持ち家になった。だが今も、「山内」の土地は田部家が所有し、人々はわずかながら地代を払い続けている。

(続く)