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あなたの言いたいこと

Vol.184/2013/5

「家族(続き)」


 上の子の時以上につわりがひどく、全く夫との性生活がなかった時、冗談で「自分で処理しているの?」と聞くと、真顔で「何もしていない」と言っていたので、「ゴメンね」と謝ったら、「気にしないで。今は元気な赤ちゃんを産んで欲しい」と言われました。そんな話をしていた数日後、あまりにもスキンシップのない期間が長かったので、やっぱりかわいそうだと思い、手で処理してあげようとしたら、頑なに拒まれました。今まで、そんなことはなかったので、その時は“よっぽど私のことを気遣ってくれているんだ”と思い、その日は何もしませんでした。

 そして、更に数日後、夫は外でお酒を飲んできて、そのお酒の影響で少し開放的になっていました。私も気分が少し良かったので、そのままベットの上で処理してあげたんです。最初は拒む姿勢を見せましたが、直ぐに成り行きに任せるようになったのですが、その時、出るものがあまり出なかったんです。何もしていない期間がこんなに長かったのに「あれ?」と思いましたが、お酒も飲んでいたし、と思いその時は深く気にしませんでした。でも、実はその子と外で会っていたからだったんです。

 なんで夫の不倫がわかったかというと、その不倫相手の子が日本に帰国した後、夫がその子とメールのやり取りをしているのを知り、そのメールを読んでしまったからです。
 日本の両親には相談していません。したら、「帰って来い」って言われるのはわかっています。今は、子どもたちのためにも逃げ出したくはありません。味方は誰もいませんし、全て背負い込んでしまっていますが、この場を借りて言わせてもらいたいです。「自分に限ってはない」と思っている方、「あれ?」と思った時は、流さないようにしましょう。涙を流すのが、自分になる前に。

<投稿者>匿名希望 39歳 女性



「代筆で代投稿」


 彼女の独り言を代筆、代投稿します。
 『何となくだけど、英語がしゃべれるようになりたかった。これと言って、理由も特になかったけど、しゃべっている自分がカッコいいんじゃないかな、と想像したから。で、近道はオージーと付き合うことだと聞いて、付き合ってみた。でも、別に上手にならない。時間帯が合わなかったし、彼とはHするだけ。会話らしい会話も無いし、週末は彼がバイトだったし。だから、別れた。今は、バイトしないと生活できないから、バイトしてるけど、シェア先はみんな日本人だし、仕事先も日本人だらけ。今度は日本人の彼氏ができたけど、いいのかなぁ、こんな生活してて』


<投稿者>yUo 21歳 男性



「楽しい」


 今から10年程前、会社からの帰り道、真っ黒な顔をして、背筋を伸ばし、ゆるい感じの中もにどことなく品のある身なりで歩いていた中学校の時の同級生とバッタリ会いました。あの頃はお互い、“親友”と言い合っていた仲の2人で、その時で7、8年ぶりの再会でした。自分は実家から会社に通勤していましたが、彼は日本での久しぶりの滞在を親元で過ごしていました。

 地元の高校を卒業して、T大学に入学。高校の時の成績は、全国レベルでの模試で上位5%に入り、T大学も希望の学部に入ることができました。あの堀江貴文さんは、自分の先輩にあたります。運動もそこそこできました。中学、高校の頃はサッカー部に入り、レギュラーで試合に出ていました。大学を卒業して、総合商社に入社。就職の時は、ラッキーだなと思うこともありましたが、何となく「自分の社会的ポジションはここかな」と思いながら入社しました。人は、自分のことをエリートと言っていましたが、自分なりに努力して、要所要所では這い上がってきたつもりです。

 その彼とは、少し立ち話した後、近くの居酒屋で一杯やることにしました。背広に白い顔、革靴に革カバンの自分と、上下アウトドアメーカーのロゴが入った蛍光色のフリースにゆったり目のパンツ、スニーカーにリュック。真っ黒に日に焼けた顔とフリースから覗く真っ白なTシャツのコントラストが印象的でした。席に座わり、今まで何をしていて、今何をしているのか、といったお決まりの会話の中で、彼の口から「楽しい」といった言葉が何度も出ました。彼は、ワーキングホリデーでオーストラリアに行き、その後、ヨーロッパを旅して、帰国したばかりだったのですが、旅先の話をしている彼の笑顔は、月並みな言い方ですが、輝いていました。自分も客観的に話を聞いていたつもりが、いつの間にか引き込まれ、数杯のつもりだったのが日付が変わるほど話し込んでいました。

 彼はしきりに言っていました。旅先でのエピソードを交えながら「何があるかわからないから楽しいし、楽しかった」と。「そのアクシデントに自分が対応できるか、できないかを試すのも楽しかった」し、「できなかったら、できるように努力する過程も楽しかった」。そして、「できるようになった時は、最高に楽しかった」と。

 あの時の会話は、今も忘れもしません。無精ひげの口元からこぼれる白い歯が、更に彼の笑顔を強調させて、「こいつは、今を生きている」と思いました。当時の自分も、人には“出世街道を歩み、将来を約束された人生”と映っていたかもしれません。ただ、彼の話の中で連発された「楽しい」といった言葉、そして笑顔は、なぜか自分を奈落の底に落としたのでした。

 去年の3月に転勤でオーストラリアに来ました。あの時の彼が話していた、オーストラリアで生活しています。複雑な気持ちです。10年経っても、結婚して子どもができたということ以外は、自分はあまり変わっていないと思います。大きな歯車の中の、ほんの一部の仕事を任され、その仕事は国家レベルのプロジェクトかもしれないけど、自分の仕事は自分じゃなくてもできるような代物です。給料も同年代の人たちに比べれば、少しばかり多くもらっているかもしれません。ゆえに、一回り大きな家や車に乗ることもできています。将来についても、このまま行けば定年まで働かせてくれるでしょう。年金だって、そこそこもらえると思います。

 ただ、“彼の”オーストラリアに来て、自分の中で何かが変わってきています。勉強すれば成績が上がり、周りの声が支えとなり、模試を受けては結果という数字が支えてくれ、今となっては就職して、会社“名”が自分を支えてくれています。でも、今まで“支え”なくして、何かやってきたことはあるのか、と考えてしまいます。アクシデントの前に“支え”を用意している人生に、「楽しい」は生まれるのだろうか、とも。
 自分の人生を振り返り、今まで「楽しい」という言葉はそれほど使ったことがありません。そう考えると、寂しい人生だな、とつくづく感じます。


<投稿者>匿名希望 34歳 男性