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フォトジャーナリスト宇田有三氏による衝撃ルポ

On The Road by.Yuzo Uda

Vol.196/2014/05


「抗いの彷徨(6)」



棺に横たわるウィンティン氏に数万人の市民が最後のお別れを告げた

棺に横たわるウィンティン氏に数万人の市民が最後のお別れを告げた。政治囚の最後の一人が解放されるまでと、生前、囚人服と同じ青い服を脱ぐことはなかった(2014年4月23日)。

 遡ること2ヶ月前、ビルマ最大の都市ヤンゴンに滞在中の3月12日、ウー・ウィンティンに電話をしてみた。というのも、その日が彼の84歳の誕生日だったからである。ただひと言、「お誕生日、おめでとう」と言いたかっただけである。

 だが、電話は通じず、ずっと話し中であった。お祝いの電話が次々にかかってきているのかな、と思ったりした。翌13日、直接、彼の部屋を訪れてみると、お手伝いの女の子が留守番していた。


 —あれ、ウー・ウィンティンは?

 「昨日の午後、病院に行ったままなんです」

 高齢のウー・ウィンティンはこの数年、病院通いが増えていた。昨年も一時期、入院していた。彼の部屋を訪れた時も、単に体調を崩していたのだと思っていた。そのまま検査入院したけれど、いつものようにすぐに回復して退院すると思っていた。私はそのまま一時、日本に帰国した。

 日本に戻ってからも、ウー・ウィンティンの情報はインターネットで逐一得ていた。今回はちょっと深刻な事態に陥り、難しい手術をすることになった。安心したことに、手術は成功。そのまま良くなると思っていた。4月末にヤンゴンを再訪するので、その時にお見舞いに行こうと思っていた。

 が、そうはならなかった。訃報は突然、やってきた。心の中では、いつの日かウー・ウィンティンが逝くことは分かっていた。それが現実となった。彼が息を引き取ったのは、4月21日(月)午前6時半過ぎ頃ということである。私は、マンダレーに滞在中であった。お葬式は2日後の23日(水)の正午過ぎ、からという情報がもたらされた。偶然というか、私がマンダレーからヤンゴンに行くのが23日の午前中であった。ぎりぎりウー・ウィンティンのお葬式に間に合った。これこそが、今回ビルマ入りした「何か」であったと、後で思わざるを得なかった。

 ウー・ウィンティンと最後に会ったのは、ほぼ1年前。私が現地で写真集を出版し、ウー・ウィンティンも獄中体験記の出版が公式に許可されたところだった。その時、お互いの著書を交換しあった。

 実は2年前、彼はビルマ国内で自分の獄中記を出版しようとしていた。だが、当時、国内ではまだ「出版検閲」があり、彼の著作は一般の人の目に触れることはなかった。そこで彼の著作は隣国タイで、在外のビルマメディアで簡易出版(コピーを綴った冊子)されることになった。それから1年後、国内での検閲がなくなり、DVD付のハードカバーの本が出版された。

 「ほら、やっと出版できたよ」

 そう言う、嬉しそうな彼の笑顔が忘れられない。

 彼に2度目に会ったとき、聞いたことがある。

 —あなたは、ジャーナリストですか、政治家ですか、それとも活動家ですか?