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シリーズ 185 (最終回)「漂泊のフォトジャーナリスト」
シリーズ 184 「記者としてのフォトジャーナリスト」
シリーズ 183 「写真家としてのフォトジャーナリスト」
シリーズ 182 「ビルマ(ミャンマー)の25年ぶりの総選挙が終わった」
シリーズ 181 「<Room 411>に暮らして(3・下)」
シリーズ 180 「<Room 411>に暮らして(3・上)」
シリーズ 179 「<Room 411>に暮らして(2)」
シリーズ 178 「<Room 411>に暮らして(1)」
シリーズ 177 「再度—『ロヒンジャ問題』をてがかりにして」
シリーズ 176 「記憶と記録の交叉(5)」
シリーズ 175 「観光コースでないミャンマー(ビルマ)」
シリーズ 174 「記憶と記録の交叉(4)」
シリーズ 173 「宇田有三の世界に触れる」
シリーズ 172 「記憶と記録の交叉(3)」
シリーズ 171 「記憶と記録の交叉(2)」
シリーズ 170 「記憶と記録の交叉(1)」
シリーズ 169 「抗いの彷徨(9)—下」
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シリーズ 167 「抗いの彷徨(9)—上」
シリーズ 166 「抗いの彷徨(8)」
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シリーズ 161 「抗いの彷徨(3)」
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シリーズ 154 「『ロヒンジャ問題』を手がかりにして(9)」
シリーズ 153 「『ロヒンジャ問題』を手がかりにして(8)」
シリーズ 152 「『ロヒンジャ問題』を手がかりにして─番外編─」
シリーズ 151 「『ロヒンジャ問題』を手がかりにして(7)」
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シリーズ 142 「『ビルマ(ミャンマー)』から『沖縄』へ」
シリーズ 141 「当事者の声がきこえない(下)」
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シリーズ 138 「独裁国家の変化─鵺のような捉えどころのなさ」
シリーズ 137 「ビルマ(ミャンマー)の女性たち(1)」
シリーズ 136 「原子力とだまされた責任」
シリーズ 135 「何が彼を変えたのか」
シリーズ 134 「写真民俗誌/写真民族誌への手がかり(4)」
シリーズ 133 「写真民俗誌/写真民族誌への手がかり(3)」
シリーズ 132 「写真民俗誌/写真民族誌への手がかり(2)」
シリーズ 131 「写真民俗誌/写真民族誌への手がかり(1)」
シリーズ 130 「最初で最後の新聞記事」
シリーズ 129 「アウンサンスーチー氏の解放の喜び」
シリーズ 128 「--14年の後、結婚しました--」
シリーズ 127 「宇田有三が見るビルマ(2010年)」
シリーズ 126 「書くことと自然の癒し」
シリーズ 125 「恐怖と隣り合わせの日本の戦後民主主義」
シリーズ 124 「信仰のある風景」
シリーズ 123 「ビルマの暑い日々」
シリーズ 122 「表の仏教、裏のナッ神」
シリーズ 121 「黄色やら、赤やら、ピンクやら」
シリーズ 120 「差別の構造」
シリーズ 119 「それを言うことによって何を言う」
シリーズ 118 「閉ざされた国 ビルマ(後)」
シリーズ 117 「閉ざされた国 ビルマ(前)」
シリーズ 116 「今、あえて『志(こころざし)』を」
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Vol.179/2012/12
「ビルマ(ミャンマー)の「ロヒンジャ問題」を手がかりにして(4)」
ビルマ(ミャンマー)最後の王朝があった上ビルマの都市マンダレー。王宮の周辺に目をやると歴史的な建築物にまじって衛星放送のアンテナも見られるようになってきた。
「〈ビルマ〉と〈ミャンマー〉 から〈ビルマ〉か〈ミャンマー〉か」へ(A)
どうして私が長らく取材対象としているこの国を〈ビルマ〉でも〈ミャンマー〉でもなく、「ビルマ(ミャンマー)」あるいは「ミャンマー(ビルマ)」と2つの呼称を併記して使い続けるのか。その違いは簡単に説明できない。しようとすれば、どうしても誤解を招いてしまう(というか、混乱を引き起こしてしまう)。だが今回(A)と次回(B)、改めてこの違いの解説を試みたい。 結論を先取りすればこういうことである。
私が、この国の名前にあえて〈ビルマ〉か〈ミャンマー〉と余分な呼称をつけるのは、1989年当時のビルマ軍事政権が、いくつかの歴史的な事実の書き換えを行い、日本政府と日本のメディアはそのことに対して疑問を差し挟むことなく、ビルマという「日本語」に定着してきた国名表記を、当然のように変更してきた事実を記しておきたかったからである。
つまり、ビルマ軍事政権を支える言動が、日本でも繰り返されてきた事実を消してはならないのである。
以下、説明が長くなるがその理由を説明したい。 東南アジア最後の軍事独裁政権国家「ビルマ(ミャンマー)」は2011年3月、半世紀に及ぶ軍政に終止符を打ち、ようやく「民政移管」を果たした。全国紙で唯一「ビルマ」表記を紙面に取り入れていた『朝日新聞』 も2012年に入り、これまでの「ミャンマー(ビルマ)」という表記から(ビルマ)を取り去り、「ミャンマー」とだけ表記するようになっていた。それと同時に、「アウン・サン・スー・チー」という表記から(・)を取り去ることで、「アウンサンスーチー」と変更した。
ビルマ(ミャンマー)問題にあまり詳しくない人には、この国(人名)をどう呼ぶ(表記する)のかということについて、それほど関心がないのかもしれない。
この国の呼称の混乱の発端は、当時のビルマ軍事政権(「国家法秩序回復評議会」=SLORC)が1989年、対外的な「英語の呼称」を〈ビルマ〉から〈ミャンマー〉に変えたことである。軍政は同時に、SLORCを「SPDC(=国家平和発展評議会)」という名前に変えた。
国連は、クーデター政権であろうと、事実上ビルマを「実効支配」しているのは軍事政権であったため、その呼称変更を受け入れた。日本ではそれにならって呼称変更を行い、現在、〈ビルマ〉よりも〈ミャンマー〉という呼び方が一般的になるようになった。