Vol.162/2011/7
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福島第一原子力発電の事故が起こる前と起こった後では、小出氏のスタンスや主張はそれほど大きく変わったわけではない。ただ、氏の立場はおのずと変わらざるを得なかった。いや、むしろ、小出氏が変わったのではなく、実は回りの方が変わったのである。では、どのように変わったのだろうか。実は、そのことを忘れてはならない。小出氏は、原子力問題から、実は私たちの生き方そのものに問いかけを発しているのだ。そのことを今、深く噛みしめたいと思っている。
「もちろん、私は、さきほど、ちょっと政治には期待していないと言いましたし、一人ひとりの、普通の、ごく一人ひとりが考えるということでしか、乗り越えていかれない、と思っている人間です。
ま、何十年か前に、日本という国は、戦争という時代を生きていたわけですね。日本人もたくさんの人が死んだわけだし、アジアの人びとを何千万も殺したという、そういう時代もあったわけです。
じゃあ、一体、誰が悪かった。
軍部だったんだろうか。
天皇だったんだろうか。
いろんな考え方はあると思います。
責任の重さもそれぞれだろうと思います。
でも、その時代に生きていた日本人の大人、一人ひとりに責任はなかったんだろうか、と思うと、確かに、だまされていたんですね。大本営発表しかなかったわけだし、教育でもなんでも、みんな神国日本で、天皇陛下が偉いと教わって、アジアの盟主だと教わって、と。そん中で人びとはそう思ったわけですけども、そう思ったことに責任がないのかと思うと、やはりそうではないと。
だまされたならだまされた責任があると、私は思い、思ってきました。
戦争に関しては。
原子力に関してもそうです。
国家が原子力を進めるといって巨大産業がそれに群がって、そして学者たちも皆、それに群がるという中で、日本の多くの人たちは原子力というのは良いものだとずうっと思わされてきたわけですけれども、大きな事故なんて起きっこないとみんなが思わされてここまで来たのだと思います。
でも、事故は、やはり起きてしまったのです。
何とも、私は、無念です。
こんなことを防げなかったことが、言葉に尽くせないほど無念ですけれども、やはり起きてしまった、のです。
一体、この責任は誰にあるのかと、問われれば、もちろん原子力の旗を振ってきた人たちにあると私は思いますし、その原子力の場にいる、(場に)いた、私にも事故を防げなかった責任の一端は、私にもあると思います。
そして、皆さんには申し訳ないけれども、皆さんもだまされてきたのであれば、だまされてきたことに対する責任があると思います。
それをお一人お一人が受けとめて、どうするのかということをやはり決めていただくということが 必要だと思いますし、今、今井さん(注:講演の司会者)がいったように国民投票ということでも私は構わない、と思います。
やはり、一人が考えるということから始めたいと思います。」
誰に責任を転嫁することもなく、まず自ら責任を引き受けて、今の日本社会に絶望しながらも、黙々と、自分のできることを続けている。 忘れてはならないのは、そのことである。