Japan Australia Information Link Media パースエクスプレス

フォトジャーナリスト宇田有三氏による衝撃ルポ

On The Road by.Yuzo Uda
Vol.158/2011/3

「写真民俗誌/写真民族誌への手がかり(2)」



 では、写真を撮すという行為は、写真民俗誌/写真民族誌とどう関係するのか。
 カメラを手にする人によって、さまざまな写真が撮られる。記念写真は、記録写真としての代表格だ。また写真は、個々人の主義主張や印象、思想や感情を表現するための手段ともなり得る。さらに、報道目的として、伝える役割の写真もあるだろう。
 たとえば、民俗学の巨匠・宮本常一は、自分が見たものの記録手段として写真を活用した。宮本の有名な言葉に、「記憶されたものだけが記録にとどめられる」という一文がある。記憶するとは、対象をキチンと見るということである。宮本は、それほど見るということにこだわった。  対象を見るとはどういことか。
 例えば、宮本は調査活動から戻った後で資料整理をする際、どこどこには何々はない、何故なら写真に何々が写っていないからだ、という言い方をしたそうだ。自分が見ていないから無いのだ(写真に撮ってないのだ)と言い切るほどであった。
 さらに宮本は「家の外観を眺めれば、洗濯物からその家族構成が、窓に写る家具からその家の内側が、薪の多い少ないからその家の経済状態や労働が分かるはずだ」と教えた。
 彼にとって、写真を撮すという行為は、自分の見たことの確認であり、写っている事象、さらには写っていないモノまでも写真に含めている。  彼にとって、見るとは、観察する、ということでもある。
 写真を撮った人には、誰にでもこんな経験があるだろう。出来上がった写真を見て、自分が思いもしなかったことが写り込んでいたと後から発見するようなことが。宮本にはそのような経験が他の人よりも格段と少なかったのではないだろうか。
 彼の対象に迫る態度には、写真を撮るという行為が単にシャッターを切るのではなく、見るという行為をとことん突き詰めている姿勢なのである。

   さて、時計台の話に戻る。
 私自身、ビルマ各地を歩き回るにつれて、それぞれの地域で撮影した時計台の写真が増えるにつれて、何か釈然としなかった。確かにこれらの時計台の写真は、ビルマの社会や民俗的なものを表すイメージであった。だが、何かしら落ち着かなかった。その原因が何だかずっと分からなかった。
 が、ある時、理由無く、ふと気づいた。あれ、これらの時計台は、別の見方をすると、英国の植民地主義のシンボルではないのか、と。
 ビルマは20世紀初めまで、各地域で各民族が、それぞれの社会風習に従って暮らしを営んでいた。当然、農作業の時期や生活時間の流れも異なっていた。それを英国が全土に時計台を建設することによって、まずは時間でビルマという国を統一したのではなかろうか。そんなことを思いついたのだ。
 英国はまず第一に、武力で現地のビルマ王朝を制圧した。だが、目に見えない形で、時計でビルマの時間を一つにまとめることによって、生活レベルでビルマを治めたのだ。
 ところが、英国による植民地主義を快く思わない今のビルマの人であっても、これら負の遺産ともいえる時計台が植民地主義の残滓であるとは感じていないようだ。
 むしろ、それぞれの地域に建つ時計台が自分の出自のシンボルのようでさえ思っている節がある。さらに、これらの時計台は時代を経て、今となっては自分たちの生活に溶け込んでしまって、その存在を疑問に思うことのない程にまでなってしまっている。  だが、ここで私が感じたのは別のところにある。時計台というイメージを前にして、故郷を思い起こす時計台の写真が、実は植民地主義のシンボルではないのかと気づいた。その思考の飛躍のきっかけの原因は何だったのか、である。

 写真を撮す側として、時計台のフレーミングに十二分に気をつけ、家屋の位置や看板の色などにも配慮し、周りの人びとの動きやのタイミングを計り、光や影も考え、シャッターを切った。昔ながらの時計台が、今も現地の人の生活に溶け込んでいる。
 珍しい時計台。
 ただそれだけの写真を撮したつもりだった。
 各地の時計台の写真を眺めることによって、そこから植民地主義のシンボルという考えを思いついた。その思い付きの理由を知りたいのである。理詰めで考えたのではないから余計に居心地が悪い。
 そこには、写真を読むという行為とは別次元の、さらにもう一歩進んだ写真との関わりがあると思える。これが、写真民俗誌/写真民族誌への次なる段階である。

(続く)