Vol.231/2017/04
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2018年ロシアW杯最終予選が佳境を迎えていますが、オーストラリアと日本の両国の結果は引き続き注目しましょう。さて、FIFA(Federation Internationale de Football Association/国際サッカー連盟)が統括し世界最大のスポーツの祭典と呼ばれて久しい大会、サッカーW杯の予選は過去に比べれば実力が拮抗し、勝ち抜くことが増々難しくなってきています。さて、恒例の問題です。
【Q】オーストラリアや日本にとって、サッカーW杯本大会に出場することの意義とは?
【A】サッカーW杯は、選手個人やその選手、そしてチームのプレー・スタイルの品評会という性質や、“国”そのもののアピールできるといった側面を持っています。また、出場することによって国を挙げて盛り上がり、莫大な経済効果を生むことができ、選手個人、そして国益にも大きな意義をもたらします。
サッカーW杯と双肩するスポーツの祭典、オリンピックはかつてアマチュアリズムのスポーツ世界大会として「参加することに意義がある」と言われてきた時代がありました。しかし、スポーツビジネスが浸透してきた80年代からプロスポーツ選手達に門戸が開かれ、いつしか「プロスポーツ選手を出場させ、手段を選ばず勝利を目指し、結果メダルを獲得し、国威発揚する」ものへと変容し、莫大な金を産む樹になりました。そして、開催を希望する国が増え、出場を目指す国も増え続けています。
一方、サッカーW杯も時代とともに性質を変えてきました。かつて、サッカー強豪国以外は参加できず、サッカー弱小国からすれば夢のような大会でした。筆者も幼少期はまさか日本が出場したり、大会を開催したりすることになるとは想像もしていませんでした。しかし、オリンピックの商業化と同様にスポーツビジネスとして発展し続け、大会のレギュレーションも変わり、サッカー弱小国への門戸も開らき続けています。
そこで、FIFAが2026年大会のレギュレーション変更を発表しました。なんと、出場枠を現行の32カ国から48カ国へ増枠すると決定したのです。
この発表は、今まで以上にサッカー後進国へ配慮を示したものと言えます。日本代表も実は以前、出場枠拡大の恩恵を受けました。1998年大会の時、24カ国から32カ国へ出場枠が拡大されたおかげで、W杯初出場できたからです。アジア地域の出場枠が、2から3.5枠へ拡大され、ギリギリ滑り込むことに成功できたのです。あの時に出場できていなければ…、日本代表がアジアや世界で現在の地位を築くのにもう少し時間がかかっていたかもしれません。
さて、2026大会のアジア出場枠は、現行の4.5カ国から8カ国へ激増しそうな気配です。2016年のW杯では、アジア枠から出場したチーム全てが1勝もできなかった地域の出場枠がです!もしそれが確定となれば、FIFAは大会の権威維持よりも商業主義に走ったとしか言いようがありません。現在、アジア地域は経済的にも発展が進行形であり、かつて日本が味わってきた恩恵をアジアの経済発展進行国に受けさせ、莫大な利益を上げようとしているのではと考えてしまいます。
サッカーの世界的な発展の視点から、出場国拡大は間違いなくサッカー発展途上国の興味を惹きつけます。予選でオーストラリア代表や日本代表を苦しめ続けている国にもチャンスが拡がり、サッカーが単一スポーツとして最大勢力に、未来永劫に君臨することを盤石にすることになりそうです。しかし、筆者は大きな懸念を抱いています。筆者にとってかつて“夢のような大会”であったサッカーW杯の格が下がってしまわないかと…。唯でさえ大会の価値がかつて程ではなくなってしまったサッカーW杯(W杯本大会が某アジア国で開催されることが決まった時に特に愕然としたのですが)が、今まではやっとのことで本戦出場権を獲得して出場していたのに、出場枠が増えることで予選通過もそれほど難しくなくなり、本戦に出場ができてしまうことになりかねないからです。そうなれば、本線での試合内容も凡戦化、省エネサッカーが当たり前で、実力差が大きい試合が増え、選手達のモチベーションも下がり、戦術的な進化も見込めなくなる可能性へと発展しかねません。なので、筆者は出場枠拡大には反対です。オーストラリアも日本も本戦に出場し続けることが出場枠拡大により簡単になってしまえば、今ほどW杯予選に真剣になれないかもしれませんので。
近代サッカーW杯が1世紀近く歴史を重ね、今後も発展を続けていくために安定よりも刺激を必要としているのであれば、今回のレギュレーション変更は避けようのない劇薬なのかもしれません。ただ、具体的な大会運営方式などは今後詳細が決定するようですが、最低限の「格」は維持してほしいと切に願っています。オーストラリアと日本が、国を挙げて盛り上がることができるような権威を維持し、そして筆者個人としても幼少期の頃の“憧れ”をなくさないでいて欲しいと思います。