Vol.169/2012/02
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下大野の開拓部落を再訪した稲葉峯雄さん(中央) |
海辺でくつろぐ魚島の女性 |
革新系だった久松定武・愛媛県知事は1955年の選挙では保守に転向する。稲葉峯雄らが推した革新系候補は久松に敗れ、稲葉は県庁の中枢から県南部の宇和島保健所に左遷されて衛生教育の担当になる。
当時の農山漁村は、肺ジストマや赤痢、結核といった風土病・伝染病が多発していた。稲葉は、各集落に分け入り、車座になって住民と語り合う衛生教育活動を年200回こなす。その中で、厳しい環境で子どもを生み育て、たくましく生きる人々の体験と知恵の重みを実感する。衛生問題は、個人の診断だけでなく、「地区全体」の生活状況と歴史の「診断」が不可欠だと考えるようになった。
稲葉は64年から「地区診断」を始める。まず、広見町(2005年の合併で鬼北町に)の下大野地区をモデルに選んだ。2年連続で赤痢が発生し、結核患者発病率は全国平均の2倍、寄生虫の保有率は4割に上っていた。現地を歩いて聞き取り調査をした後、研究者や学生約20人が1週間泊まり込み、検便や血圧測定などの検査をする。結果は組ごとの「組集会」で住民に報告する。表面的には元気でも6割が何らかの健康問題を抱えていること。野菜が不足し、主食と塩分を取り過ぎていること。水道がない上に湿気の多い住居やゴミ処理に問題があること……。
自分たちの健康問題に気づいた女性たちは「家庭菜園グループ」を作り、「暮らしのことはおなごまかせ」だった男たちも便所改善や簡易水道づくりに着手する。年1度の健康診断も習慣として定着した。
下大野の成果を踏まえ、地区診断は以後9年間に計42カ所で実施された。地域の課題をあぶり出し、住民自身が組織を作り、行動することを重視する「地区診断」は、第三世界の開発NGOなどで最近流行の「住民のエンパワーメント」を先取りするものだった。
一方、稲葉の活動は県庁内では不評だった。地区診断で健康意識が高まると、健康診断の受診率が3割から8割に跳ね上がり、仕事量が増え、予算を超過するからだ。ついに72年、当時の衛生部長が「検査は住民の要求でするのではない。行政の役割は、国の方針に基づいてやることだ」と地区診断を廃止した。以来、愛媛県でも、全国どこにでもある「健康まつり」が催されるようになった。
行政は、「幸福追求権」「住民自治」「生存権」といった憲法の原則から逸脱していく。憲法の理念を生かし、住民の「自立」を育もうと稲葉が努力するほど、権力の壁に阻まれるのだった。
(続く)
藤井 満
1966年東京生まれ。新聞記者として、静岡・大阪・京都・愛媛・島根・石川に勤務。著書に「ニカラグアを歩くー革命と内戦の今昔」(1997年)、「石鎚を守った男」(2006年)、「消える村 生き残るムラ」(2006年)。