太陽が昇り始めると、家の軒先や茂みについた水滴が光り輝く。キャンプ内をぶらぶら歩いていると、女の子がひとり、突き出た家の土台にしゃがんでいるのが目に入った。どうやら、学校が始まる前に、教科書の内容を暗唱しているようだ。
どうしてそんな所で?
そんな微妙なバランスを取りながら勉強しているのだ?
近づいて何枚かシャッターを押してみたが、顔を上げるそぶりもしない。賢明に読み続けている。すごい集中力だった。それだけ必死になって勉強して、将来に備えているのだろうか。だが、現実はそんなに優しくないのに。
難民キャンプに生まれ育った子供達には、どんな将来が待っているというのだろうか。難民キャンプ内では小学校まである。中学校に進みたければ、別の大きなキャンプに行かなければならない。高校生のレベルになると、もっと数が少ない。高校レベルの勉強が終わると基本的に、その後はない。避難民としての生活を送るだけだ。
この子供達が学んでいることは、将来的に生活する上で何の役にも立たないかも知れない。だが、彼ら/彼女達は、学んでいるだけではない。学ぶという行為を通じて、「学ぶということを学んでいる」のだと思う。
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それはどういうことかというと、難民キャンプで話をしてみると、「選択肢のある生き方や生活」とは違う次元に生きている人々がいることに気づく。自分が意志を持って生きるというのとは、違う世界に暮らしてきた人達だ。
伝統に則って生きてきたカレンの人々とは、避難民となることによって、否応なく異なった世界(「国際社会」)に身を晒すことになった。そこで、どう生き延びるのか。生存していくのか。これまでと違った世界に相対する必要に迫られている。
学ぶ、という行為は、新しい知識を身につけるというのではなく、そこに新しい世界があるというのを感じるための軟着陸するための処方箋でもあるのだ、とも思う。
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