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フォトジャーナリスト宇田有三氏による衝撃ルポ

On The Road by.Yuzo Uda

Vol.206/2015/03


「記憶と記録の交叉(4)」



On The Road by Yuzo Uda

小雨降る中、物陰で勉強する女の子(ビルマ<ミャンマー>)。

 ちなみに、「表現の自由」ということに関して、ヴォルテールの言葉が度々引用されることがある。

 《「私は君の意見には反対だが、私は、君がそれを言う権利を、命をかけて守る」》

 このヴォルテールの言葉は、実は彼が生きていた16世紀の欧州の話である。ここで考えなければならないのは、「自由」とは何か、である。自由とは、勝手気ままに生きる自由ではなく、あくまでも権力者からの自由である。テロ事件の後の反応を見ていると、そのことをはき違えている人がいるような気もする。

 近代以降、自由に生きる社会など、実はあり得ない。人は、もともと制限のある社会で生きていかねばならないのである。もし人間が各自、自由気ままに生きるとしたら、どうなるか。それこそ社会は、各のエゴがぶつかり合い、いわゆる「弱肉強食」の世界になってしまう。英国の哲学者ホッブスはこれを「万人の万人に対する戦い」と名づけた。

 人間は生まれながら自然の権利として自由権を持つ。だが、その自由権を制限することによって、人間は生存することができる。誰もが安心して暮らせる社会を目指そうとしたら、その自由を制限しなければならない、という考えが生まれてきた。「自由のための規制」である。その制限する主体を、とりあえず今は、国家としているのだ。

 時代は経て、今度は個人を制約する国家が、自らが生き延びるために意図的な活動を始めた。国家は、そのため、表現の規制や情報を管理・統制するようにもなっている。だが人間は、あらかじめその国家に縛りを懸けていた。それが憲法である。そのことも忘れてはならない。

 国家(=権力)はまた、「表現の自由」を規制するためメディアを統制下に置こうとする傾向がある。そこで、人びとは「表現の自由」を標榜することによって、権力者と対峙するのだ。だが、「表現の自由」を掲げるだけで国家権力に対抗できるわけではない。さらに、時代に合った行動規範の思想を下に、自由を守るための活動をしなければならない。では、今、何が必要なのか。


 洪水のように情報があふれ出るこの時代、社会のために必要とされる情報が、権力者に意図的に隠されていくことがある。果たして、私たちは必要な情報を得ているのか。そのことを問わなければならない。「知る権利」がキチンと保障されているのだろうか、と?

 時代を経た21世紀の今、考えなければならないのは、「表現の自由の権利」から派生した「知る権利」である。  フランスでの「シャルリー・エブド社」への襲撃事件が起こり、「表現の自由」への声が叫ばれたとき、ドイツでは表現の自由を制限する「戦う民主主義」がある、ということを指摘したメディアは少ない。知る権利が十分に機能していなかった一つの例である。

 「表現の自由」を標榜してきた記憶と「戦う民主主義」があったという歴史は交差せず、微妙にすれ違っていた。ビルマ(ミャンマー)入って、そのことをぼんやりと考えていた。