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フォトジャーナリスト宇田有三氏による衝撃ルポ

On The Road by.Yuzo Uda
Vol.177/2012/10

「ビルマ(ミャンマー)の「ロヒンジャ問題」を手がかりにして(2)」


バングラデシュのチッタゴン丘陵に暮らす「少数派民族」・ムロ民族の人びとが僧侶に手を合わす

山頂の空気は、朝陽が輝く頃になっても冷たい。バングラデシュのチッタゴン丘陵に暮らす「少数派民族」・ムロ民族の人びとが僧侶に手を合わす。


 やがてインドの他地域同様、バングラデシュでも民族運動がさかんになっていった。これを食い止めるため、イギリスはベンガルのインド人勢力の分断を意図し、1905年にベンガル分割令を発布し、ベンガルをヒンドゥー教徒中心の西ベンガルとイスラーム教徒中心の東ベンガルとに分割した。当時、東ベンガルではベンガル人としての意識とムスリムとしての意識が並存していたが、1929年、全ベンガル・プロジャ党(ムスリム上層農民を支持基盤とした)が結成され、1936年の農民プロシャ党に発展した。1930年代にはベンガル人意識が一時後退し、[ムスリム]としての意識が高揚していった。
 英領インドは、1947年に独立を達成したものの、宗教上の問題から、ヒンドゥー教地域はインド、イスラーム教地域はインドを挟んで東西に分かれたパキスタンとして分離独立することになり、東ベンガルはパキスタンへの参加を決めた。
 両パキスタンが成立すると、現在のバングラデシュ地域は東パキスタンとなった。しかし両地域間は人口にはさほど差がなかったものの、経済や文化などが大きく異なっており、さらにインドによって1,000km以上も隔てられた国土となっていた。この差異はあちこちで摩擦を起こした。
 (中略)
 東パキスタンは独立を求めて西側のパキスタン(現パキスタン)と内乱になった。バングラデシュ独立戦争である。西側パキスタンと対立していたインドが東側パキスタンの独立を支持し、また第三次印パ戦争がインドの勝利で終わった結果、バングラデシュ独立戦争を経て[1971年]にバングラデシュの独立が確定した。