今回は、2人の女性からの投稿を紹介します。
「Mine(私のモノ)」
オーストラリアに来て、一年が経ちます。彼氏は、46歳のオーストラリア人です。今、奥さんとの離婚協議中です。奥さんはインドネシア人で、子どもが2人います。ちょっと複雑ですが、子どもたちのお父さんはそれぞれ違う人です。上の娘は15歳で、下の娘は4歳です。奥さんにとっては、2度目の離婚となります。
私と彼との出会いのきっかけは、職場でした。職場近くのバーで最初、顔を合わせました。私はパートタイムで、彼は社員でした。同じバーで何度か会っているうちに、付き合いが始まりました。付き合う前から、「自分には2人の娘がいて、一人は妻の連れ子で、一人は自分の血が通う娘。今、妻とは離婚協議中なんだ」と話してくれたり、「心が弱っていることは確かだけど、君には甘えない」とも言ってくれました。私もそういう彼を頼もしく思い、何とかサポートしてあげたいと、お付き合いが始まりました。
最近、彼はかなり忙しくしています。理由は、子育てです。それにしても、“子の親権争い”は、壮絶です。
まず、聞いたところによると、法廷での協議で、弁護士へ多額の報酬を約束して、彼は自分の血が通う娘の親権をもぎ取ろうとしたようです。オーストラリアでは、離婚後、特別なケースでない限り、父親と母親の両方に“子どもに会う権利”が与えられるようですが、彼はその“会う権利”を少しでも自分が多く取れるよう争ったようです。「相手は国選弁護士を使ったから、自分は私選弁護士で対抗した。もうすでに10万ドルは使った」と話す彼の目は殺気立っていました。奥さんは「半分半分で育てよう」と提案してきたそうですが、その敏腕弁護士のおかげもあって、今は2週間で10日間、月にして約65%以上の“娘との時間”をもぎ取った、と誇らしげに話しています。
こんなこともあったそうです。法廷での協議が始まる前、2人の間で離婚を決めた頃、奥さんが「リフレッシュのため、娘2人を連れて、インドネシアに里帰りしたい」と言ってきたそうです。そこで、「その間、子どもは俺が面倒をみてやる」と言うと、「分かりました」と言ったそうです。しかしその後、奥さんの挙動が怪しくなり、長女に探りを入れたところ、「近々、3人でインドネシアに帰るとお母さんが言っていた」と教えてくれたそうです。奥さんにその件を問質すと、「航空チケット3枚を購入した。リフレッシュしたら、みんなですぐに戻ってくるつもりだった」と答えたそうです。
しかしこの時、彼は「ハーグ条約」についての知識がなかったそうです。私も彼から聞かされて知ったのですが、『一方の親が国境を越えて子を連れ去った場合、その子の元いた国に返還させることができる条約』のことを「ハーグ条約」と言うらしいのですが、もし条約に加盟していない国へ子を連れ去った場合は、“取り戻すことができなくなる”そうです。連れ去りを取り締る条約、とも言われているようですが、インドネシアは条約の加盟国ではないそうです。つまり奥さんは、娘2人をインドネシアに連れて帰り、娘たちと彼の手の届かない所へ行こうとしたのかもしれません。私もその話を聞いて、ゾッとしました。ちなみに、日本も加盟していないようです。
これも、彼から聞いたことです。彼は血の繋がらない長女15歳の娘に「お父さんと居たければ、お父さんと居ればいい。でも、お母さんと居ることを選んだのなら、家から出て行ってほしい」ときっぱり言ったそうです。「辛かった?」と聞くと、「Why? She is not mine.(長女は自分のモノではない=血のつながらない娘だ)」とサラッと言いました。彼が、無感情にも連れ子の娘への愛情をストップしたことには、かなり驚きました。その連れ子の娘とは、6年もの間、寝起きを共にしたそうです。
奥さんとの関係がうまくいっていない現状を考えると、いろいろとしょうがないかもしれませんが、血の繋がった娘への執着は、連れ子の娘と大きく違っています。黙って連れ去ろうとした奥さんに対抗するため、「Mine(私のモノ)」の娘へ執着しているのかもしれませんが、自分の支配欲や独占欲を満足させるために争っているかのようにも見え、時々彼が怖くなります。
<投稿者>Y.T 女性 30歳
「勇気」
今年で70歳になります。主人の退職後、2年間の準備期間を経て、オーストラリアに来ました。その時、私は57歳でした。今でも覚えています。結婚して、直ぐに子どもができ、毎日子育てに追われ、気が付けば人生の半分は過ぎ、“さて、これから自分の時間”と思っていた矢先の、主人の「海外生活」という提案でした。その時、本気で主人に病院に行くよう勧めました。気がおかしくなったのかと思ったのです。
この「海外生活」は正直、私にとっては不安が全てで、期待や喜びなどありませんでした。当時主人は、声を弾ませて「第二の人生」と言っていましたが、私には到底、そんな気持ちにはなれませんでした。パートの仕事はしていましたが、ほぼ専業主婦を30年間続けてきた私が、日本でも世間知らずなのに、よその国で生活できるのかという大きな不安を抱いていたからです。まして、海外旅行にも行ったことがなく、英語なんて宇宙人の言葉ぐらいとしか考えていませんでした。ご飯とお味噌汁、お魚を焼いて、おしんこを用意し、お茶を出していた生活が、トーストにスープ、ソーセージにスクランブル・エッグを用意して、コーヒーを出すといった生活に代わるのかと思うと、本当に頭が混乱していました。今思うと滑稽ですが、当時は本当にそう考えていました。
主人は、オーストラリアへの出発の準備を着々と進めていましたが、私はまだモヤモヤしていました。しかし、ある時を境に心を決めたのでした。それは、長男が孫を連れて帰省した時のことでした。
孫は3歳になろうとしていました。外で遊ぶのが大好きな孫は、いつも「おばあちゃん、公園に行こう」と手を引き、私を外に連れ出していました。家から歩いてすぐの所にある児童公園には、大きな滑り台と小さな滑り台の2つがあり、孫は必ずその滑り台で遊んでいました。ところが、大きな方へは全く関心を示しませんでした。疑問に思い、大きい方で遊ぶことも勧めたのですが、「こっちが好きなの!」といって小さい方の滑り台ばかりで遊んでいました。息子には聞いていたのですが、孫はどうやら高い所が苦手なようです。そこで、苦手を克服させようと無理やり大きい方で滑るよう、孫の手を引いたのですが、頑なに拒否されました。このやり取りが3日間は続きました。「怖くないよ」と言いながら、抱っこして、一緒に滑ろうとしましたが、泣きじゃくり、孫は全身で阻止しました。私の中では、小さい滑り台も大きい滑り台も大して変わりはないのですが、孫にとっては天地ほどの差だったのでしょう。
一週間の帰省を予定していた4日目のこと、いつものように公園の滑り台で遊んでいた孫の手を私がいきなり引っ張り、大きな方の滑り台に連れて行きました。私としては、“怖い、怖くない”と考える暇も与えずに滑ってしまえば、高い方に慣れるのではと安易に考えたのです。しかし、私が衝動的に手を引っ張ったため、孫の腕が抜けてしまったのです。「痛い」と泣き叫ぶ孫を抱かかえ、慌てて緊急病院へ連れて行きましたが、その晩は息子にかなり叱られました。
翌日、前日のこともあり、孫は全く公園には寄り付こうとしませんでした。自分のしたことに大きく後悔と反省を覚え、心が押しつぶされそうになりました。しかし、孫へは自分のしたことに悔いている姿を見せず、「明日はお家に帰っちゃうんだね」と語りかけると、いきなり「おばあちゃん、公園に行こう!」って言ってくれたんです。驚きと喜びの中、いつものように孫に手を引かれ、公園に着くと、孫が恐る恐る大きな滑り台の方に足を架け、自ら“高い方”へ挑戦し始めたのです。ビックリしましたが、表情を孫に読み取られないようにポーカーフェイスを装っていると、孫の足が震えているのが分かりました。私は心の中で「無理しなくていいよ」と叫びましたが、孫は何とか滑ろうと挑戦しています。右足を投げ出し、左足も、といきたいところなのでしょうが、その左足が前に出ません。左足が出ればそのまま座って、手で体を前に押し出すだけですが、その左足が出ません。結局、滑ることができずに、夕焼けを背に2人で手をつないで家に帰りました。しかし、私の心の中は、充実感でいっぱいでした。
翌朝、新幹線の時刻表を見ながら、忙しく帰宅の準備をしている息子夫婦の横で、孫が「公園!公園!公園!」と私の手を引っ張りました。「時間がないから今日はダメ!」って言い聞かされている孫の執拗なリクエストが、いつも以上に力が入っていることを察した私は、息子夫婦に「すぐ帰ってくるから」と言って、孫と公園へ走りました。そして、黙って孫を見守ったのです。孫は、また足を震わせながら、高い方の滑り台の階段を昇り、前の日にはできなかった左足も投げ出し、滑り台の上に座ったのです。そして、1点を見つめながら右手で体を前に押し出したのでした。
涙が止まりませんでした。滑り終えた孫は、スピードの調節ができずに、体ごと砂場に放り出され、砂まみれなっていました。口に入った砂を吐きながら、満面の笑みを浮かべていた孫を抱きかかえ、「何でおばあちゃん、泣いているの?」と無邪気に語りかける孫を心から誇りに思いました。まさに孫の『勇気』を見たのでした。
オーストラリアの生活は、今年で13年目になります。今でも毎日、『勇気』が私を支えています。私の大好きな作家、山崎豊子さんが、どこかのインタビューで「座右の銘」を紹介していました。ドイツを代表する文豪、ゲーテの言葉だそうです。
「金銭を失うこと、それはまた働いて、蓄えればよい。 名誉を失うこと、名誉を挽回すれば、世の人は見直してくれるであろう。 勇気を失うこと、それはこの世に生まれてこなかった方がよかったであろう」
<投稿者>清水 女性 69歳
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