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それでも生きる
Vol.170/2012/03

最終回 「魚島の挑戦 離島と山村と憲法と(下)」 藤井 満


あちこちに井戸が

あちこちに井戸が


 魚島村の農協に勤めていた佐伯真登は、義兄の佐伯増夫に誘われて村役場に転職する。魚島村は、73年から93年まで村長をつとめた増夫のもとで、台風の度に漁船が破損する港湾を整備し、若者のための新婚住宅を建て、テレビをCATV化するなど生活改善に力を入れた。
 中でも最大の課題が「水」だった。晴天が続くと井戸が枯れるし、簡易水道の給水は週1、2回、各2時間だけだ。そこで島内数カ所に直径4メートルの巨大井戸を掘り、井戸の底から横穴を掘って取水範囲をひろげ、24時間給水を実現させた。
 また、下水は港に屎尿貯蔵槽を設け、下肥船が月1度回収していたが、自宅から貯蔵槽まで糞尿をバケツで運搬するのはつらい作業だった。佐伯増夫は「どうせやるなら日本一にせい!」と、県や国の補助金で下水道を全戸に整備した。
 増夫のもとで教育長を勤めた佐伯真登は、93年に村長に就任する。海水淡水化施設の導入や、インターネットによる村民募集など、ユニークな村政を展開する彼の前に立ちはだかるのが「平成の合併」だった。
 佐伯は、離島にとって合併は利点がないと思った。だが、交付税額は96年度の5億9千万円が04年には3億2千万円に減ると試算され、近い将来の財政難が予想された。また、知事が合併を強烈に推進する愛媛では、「西日本最小の村」魚島村の単独存続を主張できる状況ではなかった。
 「合併するも地獄、しないも地獄」という状況で佐伯は、村民に情報を提供し、徹底して議論を重ねた。そうすればどちらを選んでも「あれだけ議論したのだから」と納得できると考えた。その結果、県が推奨する今治市との大規模合併ではなく、「島」という境遇を同じくする四町村の小規模合併を選んだ。