Vol.203/2014/12
デイビット・デューク氏の講演会(写真左)に反対する人びと(1991年3月)。
先週、これも偶然であるが、米国ロサンジェルスを舞台にした実話『フルートベール駅で』という映画を見た(2009年発生の事件)。映画の中で、やはり白人警官が黒人青年を射殺してしまう。
そういえば、米国サンフランシスコに住む知人が先日、電話で訴えるように話してくれた。
「今のアメリカの警察は最悪だよ。毎週のように、何もしていない黒人が殺されてる。そして、それがまかり通ってる。本当に最低」と。
銃が溢れ、差別と偏見が根強い社会で、目の前の出来事に過剰に反応してしまうと、そこに悲劇が起こる。さらに、その深層には、差別主義者を野放しにしている社会がある。偏狭な差別意識は、実は銃と同じくらい、怖いのである。そして、多くの場合、差別主義者の憎悪の対象となるのが、マイノリティーである。ここでいうマイノリティとは、もちろん人種だけに限るのではなく、思想、信条、性的指向なども含まれる。しかし、その一方で、人びとは差別主義者に対して闘ってきた歴史もある。口をつぐんでしまえば、いつ、自分が迫害の対象になるマイノリティになるかもしれないからだ。もっとも、冷静に考えると、誰もが何らかの形でマイノリティであるのだし。
日本でも数年前から「在特会」という差別主義者の団体が声を荒げてきた。すると昨年頃から、「在特会」による憎悪を煽る宣伝に対して、街頭に出て反対の意思表示をする人びとも増えるようになってきた。そして最高裁は今年2014年12月10日、「在特会」による朝鮮学校周辺の街宣行動は政治活動ではなく「人種差別」だと確定し、1,200万円の賠償と学校周辺での街宣を禁じる画期的な判決を下した。差別発言は、発言の自由ではないのだ。
私の中でこれまで、デイビット・デューク氏の存在は記憶の底に沈んでいた。だが、在特会の活動や最近の米国での事件を機会に、改めて差別の時代が生き返って、私の目の前に現れた。だが、デイビット・デューク氏の存在だけでなく、彼に陰ながら支持を与える者に対して、実は多くの人びとが反対行動を起こしたという事実も記録しておくべきだ。