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フォトジャーナリスト宇田有三氏による衝撃ルポ

On The Road by.Yuzo Uda
Vol.158/2011/3

「写真民俗誌/写真民族誌への手がかり(3)」


 この写真(右上)はビルマ(ミャンマー)を北から南に貫くイラワジ河の岸辺で働く人びとの姿を写したものである。男女の区別なく、建設用の川砂を運んでいる様子を捉えようとした。
これ(右下写真)は途上国の多くで見られる水汲みの光景である。この写真を撮る時も、2人の姿の距離や全体の構図、朝陽の当たり具合などを計算に入れてシャッターを切った。

これらの写真は、私が現場で目にした状況を切り取ったイメージに過ぎない。いつ・どこで・どのような状況だったかだけを記す、つまり、現場に立っただけの記録写真である。
あるとき、宮本常一の活動記録を解説する本を読んでいた。すると、次のような記述にでくわした。
「物を担ぐ(かつぐ)という行為をひとつ取ってみても、男は肩で担ぎ、女は頭の上に乗せて運ぶという区別を宮本は見極めていた」
この一文で、改めて自分の写真を見直してみると、確かにいくつかの例外はあるが、自分の撮った写真の多くでも、男は肩で担ぎ女は頭上運搬をしている。それはビルマだけに限ったことではなく、遠く中米エルサルバドルで撮影した写真でも同じであった。
自分の意図したこと以上の情景が写されていた。おかしな表現だが、写真には写っていないものが写っていた。
これこそが宮本常一の言う、とことん見るという行為(“観察”する)を突き詰めることだったのだと解釈できた。
どうして男は肩なのか。どうして女は頭上なのか。それは体格の違いからなのか。或いは、中国や日本での王朝時代、男も宮廷では頭上運搬をしていたのだが。
が、今は、その理由はさほど重要ではない。問題は、私自身がこれらの担ぐという行為を撮影していたとき、男は肩で女は頭で、という違いを観察していなかったことである。目の前の現象だけを見ていた。人びとの暮らしそのものを見ていなかった。今だから言えるのは、自分の写真は見ていなかったということの証拠写真である、ということだ。

政治制度は権力者の交代によって度々変わってきた。だが、生活に根ざした人間の暮らしというものはそう簡単に変わるものではない。ということは、私もまた、とことんそれらの人間生活を見るということを突き詰めていなかったのだ。
写真は、写っていないモノも写真に含めることができる。これもまた、写真民俗誌/写真民族誌への手がかりになるのではないか。

写真1
写真2