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現役新聞記者が、過疎化・少子高齢化が進む日本を追う

ムラの行方 藤井 満

Vol.193/2014/02

第22回「たたらの里の暮らし考(22)」


「砂の器」にも登場した亀嵩駅。

雲南市掛合町の「道の駅」に立つ竹下登の像。
「島根に生まれ 島根に育ち やがて島根の土となる」と記されている。

 出雲の歴史的な閉鎖性は、独特の政治風土もつくりだした。典型的なのが竹下登・元首相だと、藤岡大拙・荒神谷博物館長は見る。
 ヤマトの王朝に敗北し、極端な閉鎖社会を形成した出雲では、相手に不快にさせないよう細心の注意を払う人間関係が広がった。竹下は気配りの効く出雲人の典型だ。気配りゆえに婉曲な表現になるから「言語明瞭、意味不明」と評された。
 竹下を地元で支えたのは、「プロトタイプの出雲人」とも言える農山村の青年団の人々だった。「だわな」を口癖として、国会でも出雲弁をしゃべり続ける竹下は、まさに故郷の誇りだったのだ。
 藤岡さんによると、1993年までの中選挙区時代には、総選挙の度に、健康診断を呼びかけるのと同じ感覚で「竹下さんが来るから集まって」と地域の顔役が集会への参加を促した。
 当時はまだ地域共同体が強かった。藤岡さんの集落は24軒のうち、藤岡さん以外はすべて農家だった。バブル経済が崩壊するころまでは、月1度の常会は午後8時に集まり、夜中まで酒を酌み交わした。
 今は、みな忙しいから常会は30分で終わってしまう。農業を営むのは3、4軒になり、農村共同体の形は崩れてしまった。「たまに飲み会があっても、テーブルを囲んで飲むのは年配者ばかり。若いもんは壁際で足を投げだして『おじいたち、いつまで飲むんかいな』という顔をしている。選挙でも昔は、誰々をよろしくって顔役に言えば票が集まったが、今の若いもんは顔役の言うことなんか聞かん。有力者を通して票を獲得する形の選挙運動はもうできないでしょう」
 2009年の衆議院選挙では、全国で民主党が大勝するなか、竹下登の弟の竹下亘が、民主党などが推した亀井久興に大勝し4選を果たした。竹下陣営は「ふるさとを守る」と連呼して「どぶ板」選挙を展開した。藤岡さんの住む地域でも、久しぶりに「竹下さんが来られるから皆さん出て来てください」と地域の顔役が一軒一軒声をかけていた。