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現役新聞記者が、過疎化・少子高齢化が進む日本を追う

ムラの行方 藤井 満

Vol.178/2012/11

第7回「たたらの里の暮らし考(7)」


「谷笑楽校」として再生された旧谷小学校

橋波の集落営農組織づくりを指導した深井徹郎さん

 山あいを蛇行する神戸川沿いをさかのぼり、全長440メートルの下橋波トンネルを抜けると、棚田に野火の煙が漂っている。旧佐田町(島根県出雲市佐田町)のもっとも上流の、飯南町と接する谷間にある橋波地区は、地区内わずか10キロの神戸川に11本の橋がかかっている。  かつて神戸川の魚は貴重なタンパク源だった。橋波で生まれ育った永見邦夫さん(84)が子どもの頃、ウナギは用水路や水田に入るから夜中に電灯をかざして銛で突いた。夕立が降るとモクズガニが砂利道を列をなして横断する。よどみや淵ではコイがとれる。秋はアユを串にさして囲炉裏でいぶし、卵は塩に漬けてウルカにした。
 4集落で構成される橋波には約100世帯あった。米と養蚕と炭焼きと畜産をこなす「五反百姓」ばかりだ。荒起こしや田植えなどは「手間がわり」と呼ばれる共同作業でこなした。屋根の茅の葺き替えも集落総出で担った。
 田植え後の「田休み」には、マキの葉で包んだ団子を食べながら将棋などを楽しむ。雪深い冬は、朝暗いうちから藁をたたく音が響き、夜な夜な誰かの家に集って炭火のこたつで団欒を楽しんだ。「春まではのんびりやりよったもんだわね。みんな仲良くて、部落は家族みたいなもんじゃけん」と永見さんは振り返る。

 戦後、耕耘機や田植機が導入されると「手間がわり」がなくなる。茅葺き屋根も減り、永見さん宅も74年に瓦屋根になった。茅葺きは、夏は涼しいし冬はあたたかい。瓦にした当初は、夏は暑くて眠れなかったという。
 56年、神戸川の水を西側の江の川水系に分水する来島ダムが約15キロ上流に完成する。水量が減り土砂が堆積して淵は消え、河原に葭が生い茂った。川で遊ぶ子もいなくなった。永見さんは佐田町議をつとめ、江の川への分水を止めさせる「水戻せ運動」に関わり、自宅の1.5キロ上流に建設される志津見(しつみ)ダム(2011年完成)の反対運動に取り組んだ。だが、一度失った環境は戻らなかった。「ダムの底から水を出しちょうから水温が低い。腐り水よ。川が死んでしまい水害も増えました。大失敗だわね」

 2005年の合併で佐田町がなくなるまで町議だった深井徹郎さん(69)は、度重なる神戸川の水害が否応なく集落の団結力を育んだとみている。
 橋波地区は神戸川とそれに沿った旧道沿いに家々が集まり、支流や枝道がほとんどない。水田の水も9割は神戸川の本流からとっている。だから水害の度に、用水路を集落総出で補修してきた。「ほとんどの家が川と道路沿いにあるから、コミュニケーションが山間地には珍しいほど進まざるを得なかったんです」
 旧佐田町では町内9地区対抗の町民体育大会が、ほぼ毎年開かれてきた。40数回のうち橋波は20ちかく優勝し、とりわけムカデ競争は負け知らずだった。
 「手間がわり」や水害対策でつちかったムラの団結力は、高度経済成長後の農村の荒廃と過疎のなかでも底力を発揮することになる。