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あなたの言いたいこと
Vol.170/2012/03

今回は、日本人女性2人からの投稿を紹介します。



「あれから1年」

 東日本大震災から、もうすぐ1年が経とうとしています(パースエクスプレス3月号が出る時は、3月11日はもう過ぎているのですね)。

 私には、2人の息子とオーストラリア人の主人がいます。あの日は、次男と東京にいました。次男は当時3歳。長男はオーストラリアで学校に、主人はオフィスで仕事をしていたそうです。次男にとっては、初めての日本でした。生まれる時にオーストラリアで両親には会っていますが、次男が両親に日本で会うのは初めてでした。長男の学校、主人の仕事の都合で、その時は次男と私の2人での里帰りでした。

 3月10日、仙台の私の実家で、親戚一同が集まってくれ、豪華な夕食を振舞ってくれました。仙台老舗の牛タン屋で買ってきてくれた牛タンを堪能し、子どもの頃にも食べた、懐かしいセリや雪菜の山菜のお浸し、そして牡蠣のバター焼き、別腹に入ったずんだのスイーツまで、仙台を本当に満喫した一夜でした。テーブルの上には、もっといろいろな料理が並び、両親や親戚みんなが「せっかく仙台に来たんだから」といってもてなしてくれたのです。

 次男を寝かし付けた後、両親と昔話に華を咲かせ、またオーストラリアでの再会を誓い合いながら、次男の横に体を滑り込ませました。心地よい疲れがまぶたを重くしましたが、その日の最後に目にしたのは、なぜか壁に箪笥を固定している金具でした。

 3月11日の朝、新幹線で東京に移動して、早めにホテルへチェックインをし、次男と昼食を取りに行こうとした、その時です。あの衝撃は、私が小学校5年生だった宮城県沖地震で感じたものを直感的に思い起こすものでした。震える手で次男を抱かかえ、ロビーのカーペットの上で崩れるようにお尻を着きました。初めての地震を体験した次男は、天井に吊るされたシャンデリアを右へ左へと目で追っていました。

 それからの時間の流れは、正直、あまり覚えていません。ただ、パニック状態の中、大勢の宿泊客が行き交うロビーで“震源が東北”という言葉が耳に入ってきた時、繋いでいた次男の手を無意識に強く握り締めていました。「ママ、手が痛いよ」との声で、さらに動揺を深めながら、すぐさま実家に連絡を入れるも、耳にあてがう携帯電話からは、発信音が途切れなく流れ続けるだけでした。

 夕方、オーストラリアの主人から、仙台の両親は無事だとの知らせを受けました。私からよりも、オーストラリアの主人からの連絡の方が早かったようです。その安否の知らせは、全身から力が抜け、肺が膨らむのを感じました。しかし、その時はまだ、被災地がどのようになっているのかを知らず、期待していた知らせを受けたまで、といった感触でした。しかし、あの時点で津波も含めた具体的な被害状況をもし把握できていたら、切に“生きていることだけ”をどんなに心から願っていたことでしょう。

 その夜は、ホテルの一室で、視界が遮られることに恐怖を感じ、カーテンを空けたまま、程遠い階下のネオンが天井に反射するのを随分長い時間、眺めていました。ツインの部屋でしたが、1つのベットに抱き合うようにして次男と横になりましたが、余震も続き、仙台の両親や親戚が今、どうなっているのか心配で、一睡もできませんでした。そんな中でも一瞬気が遠くなりかけると、誰かに背中を押されるようにして次男の寝息を確認し、何度も強く抱きしめました。そして翌朝、朝日がベットを照らすと、次男が目を覚まし「ママ、おはよう」と言いながら私の髪を優しく撫でてくれました。

 次男の笑顔が朝日と重なり、なぜだか分かりませんが、涙が止まらず頬を伝わり「生きてるって、すごいね」と語りかけていました。

<投稿者>匿名希望 44歳 女性