Vol..141/2009/10
「惚れ惚れとする顔の皺(しわ)」

 自然の流れに沿うと、生物は生から死の方向に必ず向かう。それにも関わらず、現代を生きる人間は、そのことをついつい忘れがちになる。老いや死から眼を逸らそうとして、若さを保って、今だけを生きようとする。時間の流れにも反逆しようとしている。
 「今だけを生きようとする」ということは、その人が生きてきた過去を拒否・拒絶することにも通じる。ひたすら今だけを追及するということは、過去を振り返って未来を考える、未来に備えるということを避けるような生き方でもある。それはまるで、断片化されてしまった情報(社会)の一端を見せつけられているようでもある。
 デジタル情報は変わらない。それなのに変わる人間が、必死になってその変わらぬ情報に調子を合わせようと、もがいているようにも思える。これも反対だろ。人間が情報を使いこなすのであって、情報に追われる人間は、実は死ぬことのない情報の世界に取り込まれようとしている。人間は時間の媒介変数になれるが、情報はそれになることができない。

   どうすればいいのだろう。どう生きればいいのだろう──青年期を経てきた誰もが感じる大きな疑問であろう。こんな悩みを抱いた時、過去を振り返って、将来を考えるということに慣れていなければ、厄介なことになる。個人として、独りの人間として、乗り越えることのできない壁を前に、ただひたすら怯えるしかない。それで、ますます過去を振り返って未来のために考えることをやめてしまう。知らず知らずのうちに悪循環に陥ってしまう。

   だが、私は、「自然に帰れ」だの「本来の人間はこうあるべきだ」という説教臭い大上段の論理を振りかざそうとしているわけではない。実際、私たちが生活している現実社会は情報が商品(「私たちはどう生きるべきか」などという“How to 本”)として溢れかえっているからだ。
 元々、今の社会を作ったのも我々人間だ。今という時代は、私たちの存在の産物であり、排泄物でもある。だから、ここから逃れようがない。まるで、水槽の中の金魚が自らの排泄物と共存しなければならないように。我々人間は、この汚してしまった地球の中で生活してゆかなければならない。
 でもやっぱり、若いという価値をやたらと強調する社会は、やっぱりどこか変である。老いも若きも、正義も不正義(しぶしぶその存在を認めざるを得ない現実がある)も、清濁を含めて共存していかなければならない。
 そのためにも、過去を如実に表している老人の顔の皺などを受け入れることは当然だろう。顔の皺も、頭の白髪(あるいは禿げた頭)も、見ようによっては魅力があるように思いたい。要は自然と人間、社会と個人のバランスの問題だと言いたい。
 「じゃあ、そのバランスをとる線引きは、どこに引くのか」だって? すぐにそんな問いかけをする人が出てくる。そういうあなたこそが、バランスを欠いているのだ、と私は言いたい。
   


This site is developed and maintained by The Perth Express. A.B.N.29 121 633 092
Copyright (c) The Perth Express. All Reserved.