この間、乗り合わせたタクシーの運転手が、イラン人だった。彼と話しているうちに今まで知らなかったことが見えてきたのだが、彼いわく「80年代のイラン革命以来、イスラム社会とそれをとりまく環境は、劇的に悪くなってしまった」のだそうだ。「するとホメイニ師が長い拘留生活を終えてフランスから帰国したことがいけなかったのですか?」これは僕の質問。
「劇的に悪くなったよ。それ以前のイランは、美しい山や川、森に恵まれたオアシスのような国だったよ。それがホメイニが帰ってきて、パーレビがハーレムの女どもといっしょに追放されてからは、国が一変してしまった。」
「つまり、イスラム原理主義が台頭しだして、女性は黒い衣装をまとい、顔を隠さなくてはならなくなったり、男性は5人までの妻を娶れるようになったりとかのことですか?」
「そうじゃない。イスラム原理主義が台頭したのはそのずいぶん後だよ。パーレビが追放されると、俺達は誰も外国に出られなくなってしまった。理由はアメリカを始めとした西側の国々が、イラン革命以降のイランをテロリスト国家と位置づけてしまったからなんだ。そのために、以前はイランの通貨がUSドルに対して7分の1の価値を持っていたのに、革命後は700分の1にまで落ちてしまった。だから、それまでと同じ量の石油を売っていたんじゃ、みんな生きていけなくなった。海外旅行なんて以前は3年に1度は行っていたのに、誰も外に出られなくなった。みんなどんどん貧乏になって、イラン革命についていけない人は国を捨てた。残った人の多くがイスラム原理主義を受け入れざるを得なくなった。」
「それで、パースに来られたんですね?」
運転手は、スワン川にかかる橋を渡りながら続けた。
「ちょうど今頃の、秋の終わりのテヘランはね、それは美しい街だったよ。街の中心から四方に長いトンネルが延びている。それを抜けると景色は一変して深い山並みと、川や湖のまわりに広がる森になる。こんな乾いた景色とは比べ物にならないよ。」
この話は、少なからぬ驚きを僕にもたらした。僕は長い間、イラン革命はイランの人々に、自立をもたらしたと思い込んでいた。少なくともパーレビとかいう訳のわからない親父が好き勝手に飲み食いしていた国家と比べたら、イランの人達に国が帰っただけでも、すごいことであると認識していた。ところが革命がもたらしたものは、通貨の暴落と、テロリスト国家という汚名だったという。そのための貧困が、アルカイーダのような戦闘集団を生むきっかけになってしまった。イラン革命の失望は、イスラム社会全体に西欧社会に対する決定的な不信を植えつけてしまった。そして、一昨年、我々はアフガニスタンに軍隊を送り、今年はイラクに軍隊を駐留させてしまっている。
僕の会社に南アフリカ人のマネージャーが入ってきた。そいつの話によると、イラン革命の話など別に驚かないということなのである。
「アフリカ東海岸のモザンビークという国は、数年前、とんでもない水害に見舞われてしまった。それこそ国土のほとんどが、考えられないような大洪水に押し流されてしまった。でも、アメリカや西欧諸国は、何もしてやらなかった。視察に来た外国のお偉いさん達が、何とかしなきゃとみんな言っていたよ。でも、今日まで、そのままにされている。アフリカはたいへんな貧困と向き合っている。モザンビークなんか通貨の価値がドルの15000分の1なんだぜ。もうどうにもならないよ。」
「…。」
「まあ、おれにもよくわかんないんだが、とにかくアメリカには、みんな腹を立てているよ。だから、お前んとこもいつまでもあんなところにくっついてない方がいいんじゃないかな。」
イラクに自衛隊を派遣するのは、年明けあたりになるのだろうか?
僕は人を待つことを得意にしていない。誰かと待ち合わせて、自分が待ち合わせ場所に早く着いてしまって、相手が来るまでどうやって待つのかを知らないのだ。だから、待っているうちにだんだん腹が立ってくる。時計を気にしたり、人ごみを目で追いかけたり、待つことイコール苦痛なのである。でも、最近、待つことを違う角度から考えてみようかなと思い出した。つまり、約束の場所に相手よりも早く行く。そして相手の来ることを忘れて、その場所から見える景色や、匂いや、音なんかを、まるで画家がスケッチするみたいに楽しんでみたらどうだろう、ということ。例えば、潮騒が遠くで聞こえるのに気づくかもしれないし、いい匂いのする女の子が偶然ベンチに隣り合わせるかもしれない。そういったことを楽しんでいるうちに、やがて待ち合わせをした人が現れたりしたら、人を待つことも悪くないと思えるのではないか?そんなふうに考えはじめている。
次男が公立の演劇学校に合格した。12歳、小学校6年生である。DRAMA
& PERFORMING ARTS HIGH SCHOOLといい、合格倍率は700倍だった。
「よく受かったね。すごいじゃないか」と賞賛が続く中、ある晩、そっと次男に聞いてみたのである。
「一体、いつ演劇の勉強なんかしていたんだい?」
すると彼は堰を切ったように泣き出したのである。
「この6年間、ずっと演劇の連続だったよ。あんな小学校なんて、思い出したくも無い。」
泣きじゃくりながら彼の話すところによると、いじめも凄惨を極めていたそうなのである。「だから自分を守るために、どんなにいやなことがあっても、バランスを崩すわけにはいかなかった。弱みを見せるわけにはいかなかった。」
くそ、12歳の小僧っ子がこんなにも真剣に、自分の人生を切り開いていこうとしている。僕も、こうしちゃいられないと思う。
2003年が終わろうとしている。この1年があとで思い出した時に、特別な1年になっていないでほしいと思う。なにも思い出せない代わりに、豊潤な大河の流れのような日々を、過していたと感じられたらどんなにすばらしいだろうと考える今日この頃である。
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