|
俺の友人に、子供が同じ歳でよく家族で食事に行ったり、お互いの家に招いたり招かれたりと親しくしている夫妻がいる。この夫婦、旦那の方は医者なのだが、ある大きな私立病院のER、つまり緊急救命室の室長をしている。緊急救命室と言えば、まさに様々な原因で死に直面してる人達の治療を行う場所で、彼も非常に強い使命感と精神力を持って激務を遂行している。 ある日、この診療室に10歳の女の子が運ばれてきた。一人遊びの最中の事故。室内で高い所から足を滑らせ落下した際、つかまっていた何かの紐が首にひっかかり、首を吊った状態のところを発見された。意識不明、心臓もほぼ停止した状態で救急車で運ばれてきたが、数分後には死亡の診断が下された。 彼は仕事柄これまでに多くの悲しい死を見ているが、幼い子供のケースはやはりいつでもつらいそうだ。言うまでもなく、既に心臓が停止して瞳孔が開いているような状態の患者を最大の努力と最新の医療技術を持ってしても救ってやれなかったことは、もちろん彼の所為ではない。しかし、理由はどうあれ消え行く幼い命を救ってやれなかったことは、同じく女の子を持つ彼にとっては他人のこととは思えなかっただろう。 我々の前には、この女の子がたった10歳にして命を失ってしまったという事実だけが、そこにある。しかし、その事実は親にとってみては、決して風化されることは無い。最愛の娘を失った苦しみと同時に、未然に事故を防げたかもしれないと思う自責の念に苛まれる親の苦しみ。そして、その苦しみに耐え、社会人としての責任を果たしながら生きて行かなければならない苦しみ。二重三重の苦しみは、常に彼等の心を締め上げ、内側から激しく殴り揺さぶり続けるのだ。 俺は息子の恵蘭と仲良く風呂に入りながら時折ふと、「もし、この子が今消えていなくなってしまったら、俺はどうなってしまうのだろう」と考えてはいけないことを考えることがある。正直言うと、俺には全く想像がつかない。 事故、犯罪、戦争。毎日メディアを通して多くの子供達の命が失われていくニュースが伝わってくる。そして、その数だけ多くの子供を失った両親がいる。その気持ちは本当に愛する子供を失った親でなければ分からないだろうし、出来れば分かりたくはない。ただ、今後自分は親として、その狂乱寸前の悲しみや苦しみ、怒りを常に自分が味わう可能性があることだけは分かる。目の前で無邪気に自分に笑いかける子供の笑顔を見ていると、その絶望に果たして自分が耐えられるかどうかは全く自信が無い。どんなに精神や体を鍛えているつもりでも、人の心のなんと脆いことか。 人はいつか死ぬ。早かれ遅かれみんな死ぬ。それは分かっている。だから、子供の尽きた命運を天に呪うのはエゴかもしれない。しかし、少なくとも子供なりに、せめて大人になるまでは満足の行く人生を送らせてやりたいと思うのは、決して親のエゴではないハズだ。 若さ故に無駄に時間を使って、無駄に命を削って、そして親に散々心配をかけてきた己の未熟さと愚かさは、やはり自分に子供が出来た時に痛感する。だからこそ、また自分の死を悲しむ人達がいることにも気付かされる。悲しませたくない人がいるから、生きる。どんなに苦しくても生きる。それが育ててもらった親への感謝の気持ちであり、生まれて来てくれた子供への感謝の気持ちだからだ。「親より先に死ぬのは親不孝」と誰かも言っていた。 もし、あなたが親に愛されていないと思うなら、あなたは未熟な大馬鹿者だ。これが、子供を持ってはじめて心の底から分かったこと。まだ親が生きてたら大事にな。それから、万が一あなたの親が本当にあなたを愛していないとしたら......、あなたはもっと強い人間になっているでしょうから、死ぬことなどは決して考えないはずだ。ただし、自分の子供には自分が貰えなかった分、愛情をたっぷり与えてやることだな。自分の子供に同じ思いは味合わせるなよ。どうしても死にたければ、せめて人の役に立って死んで下さい。爆弾処理でも、原発の内部での修理でも、なんでもあるだろう。 |
|
This
site is developed and maintained by The Perth Express. A.C.N. 058 608 281 Copyright (c) The Perth Express. All Reserved. |